- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県上三川町
- 広報紙名 : 広報かみのかわ 2025年3月号
近世の道路といえば「日光道中(どうちゅう)」が有名ですが、町内を通る道として「関宿通(せきやどどお)り多功道(たこうどう)」があります。
この道は、千葉県流山(ながれやま)市辺りを起点に、茨城県を経て、多功(たこう)に入り、鞘堂(さやどう)で日光道中と合流します。全長約82の日光道中脇街道のひとつで、「日光東街道(ひがしかいどう)」とも呼ばれます。日光道中と合流する地点には、追分(わかさり)という地名も残っています。
なお、多功道の詳細は、文化3(1806)年作成の『五街道分間延絵図(ごかいどうぶんげんのべえず)第4巻』に描かれています。
この道がいつ頃からあるのかはっきり分かっていませんが、一説には中世の「宇都宮大道(おおみち)」に比定されるともいわれています。
多功道は、江戸時代の公用道路であり、徳川家の日光社参(しゃさん)の折には、日光街道の混雑を緩和(かんわ)する役割を担っていました。
例えば、8代将軍吉宗が69年振りに日光社参を復活させた際には、権威誇示(けんいこじ)のために13万人の行列となりました。多功道も13の大名が通行し、松山藩主松平家の場合、お供は3千人の行列でした。
なお、社参に際しては、周辺の村々には助郷役(すけごうやく)という人馬の供出などの負担が課されたため、多功村の人々にとっては、いい迷惑だったことでしょう。当時の風景を思いながら、街道を歩いてみるのはどうでしょうか。
問合せ:生涯学習課 文化係
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