くらし 〈特集1〉戦後80周年を迎えて― ~語りべ・福居さんが伝えたいこと~(1)

令和7年は戦後80年という節目の年です。
全国で310万人、志木市でも、270人もの命が戦争によって奪われました。
戦争の記憶を風化させないためにもその悲惨さを後世に伝えていかなければなりません。
現在、(一財)埼玉県遺族連合会副会長や志木市遺族会会長を担い、戦争を経験した語りべとして市内小中学校で戦争の悲惨さや当時の暮らしなどを語り継ぐ福居一夫(ふくいかずお)さんに話を伺いました。
平和の尊さについて、改めて考えてみませんか。

■はじめに
福居さんは、学校などで戦争体験を語る「平和の語りべ」として活動されています。その活動の中で印象的だったのは、ある学生とのやりとりだったと言います。
「どこと戦争したの?どっちが勝ったの?と聞かれて、戦争のことをまったく知らないんだと実感しました。でも、戦後生まれが90%を占める今はそれが現実なんです。だからこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるために語りべが大事なんですよ。戦争を経験した語りべたちはもう高齢になっていて、これから先はどんどん話せる人が減っていく。令和5年になってから語りべを育てようという話が国からいよいよ本格的になってきたので、より多くの人に広がればと思いますね。」と福居さんは語ります。

□志木市内の語りべの人数
平成27年度(戦後70年):8人
令和2年度(戦後75年):4人
令和7年度(戦後80年):1人

■2歳で父との別れ
——戦争のことで特に印象に残っていることはなんでしょうか?
父が出征するときの写真です。当時私は2歳でしたが、これが父との最後の時間になりました。普通は軍服で行くものなんだけど、うちは羽織袴(はかま)だったんです。珍しいでしょ。当時、臨時召集令状(赤紙)がきていたのは30歳前後の人がほとんどだったんだけれども、父は30代半ばでした。それでも徴兵されました。結果、父は帰ってこず、硫黄島で戦死したことが、しばらく経ってから分かりました。また、犬も飼っていましたが、空襲の際、吠(ほ)えたり暴れたりする恐れがあったため毒薬を打って処分されるなど、何の罪もない動物までもが犠牲となったのです。

——空襲の被害も受けたのでしょうか?
当時4~5歳の私がいた浅草の近くにはコンクリートでできた都電の倉庫があって、そこに逃げて命拾いしました。空襲による竜巻のような劫火(ごうか)が近くの言問橋(ことどいばし)を襲い、多くの人が隅田川に逃げ込みましたがほとんどの人が助からず命を落としてしまいました。

■戦後の支えとなった母
——終戦後の生活も相当大変だったのでしょうか?
配給の時代は、食べ物だけでなく身に着ける物も不足していました。給食もなく、普段の食事は芋ごはんとすいとんが中心で、卵やりんごは病気になった時しか食べられませんでした。また、運動靴もなかったため、小学6年生の運動会では全員裸足でした。私はあるときケガをして、包帯を2~3か月巻いていましたが、栄養失調で薬もなく傷口が膿(う)んでしまったこともありました。

——幼少期の中で、支えになった存在はなんでしょうか?
母ですね。父がいなかったけれど、母は本当に立派に育ててくれました。私が寝るときはまだ仕事をしていて、起きた頃にはもう仕事に出ていて、母が寝ているところを見たことがありません。お母さんはいつ寝ているんだろうと思っていました。疲れていたにもかかわらず、私が暗い性格にならないよう、曲がらないよう、厳しくも明るく育ててくれた。今振り返っても、一番偉かったのは母ですね。

((2)に続く)