くらし 特別企画「つるがしま100年のあゆみ」第2弾(2)

【人口急増とインフラ整備】
高度経済成長による東京への人口集中が進む中、交通の便が良い鶴ヶ島は人口流入が加速します。町制施行時約9千人だった人口は、10年間で2倍となり、平成3年には市制施行を迎え、30年間で7倍まで、急激に増加しました。
このような環境変化に合わせ、インフラ整備も進みました。戦前は電気の普及も限定的でしたが、昭和30年代になると経済成長や工場誘致に伴い、一般家庭にも広く電気が行き渡りました。
水は各家庭や共同で掘った井戸が使用されていましたが、昭和40年代、町の時代には、生活環境の悪化が懸念され、上下水道の整備が本格化。昭和43年に坂戸町と共同で「坂戸、鶴ヶ島水道企業団」「坂戸、鶴ヶ島下水道組合」を設立すると、昭和45年ごろから順次給水が始まり、昭和48年には汚水処理が始まりました。昭和46年には、毛呂山町・鳩山村(当時)とごみ処理組合を設立(現埼玉西部環境保全組合)。翌年に越生町も加入すると、毛呂山町で焼却場が操業し、広域的なごみ処理が始まりました。
人口増加により宅地化が進むと、併せて道路整備も進みます。昭和40年代後半から、富士見地区や脚折地区、南町・松ヶ丘地区、羽折地区で土地区画整理事業が始まり、道路網も整備されました。昭和50年には関越自動車道に鶴ヶ島ICが開設され、国道407号との交差により、交通の利便性が大きく向上しました。鉄道についても、昭和53年に東武東上線若葉駅が開業され、駅周辺を中心に、町はさらに発展します。
同じころ、学校整備も進みました。村の時代は鶴ヶ島第一小学校・鶴ヶ島第二小学校・鶴ヶ島中学校のみでしたが、昭和53年に新町小学校が開校すると、昭和60年までのわずか8年の間に11の小・中学校が開かれ、現在の配置となります。
「町」時代の鶴ヶ島は、都市基盤整備の時代であったことが分かります。

【平成、そして鶴ヶ島市へ】
都市基盤の整備とともに、人口は右肩上がりで増加します。昭和61年には市制施行の要件の一つ、人口5万人を突破。平成3年9月1日に、単独で市制を施行しました。坂戸市(昭和51年施行)からは15年遅く、日高市(平成3年10月1日施行)とは1か月違いの、県内で37番目の市制施行となりました。
明治22年に発足した鶴ヶ島村は、昭和41年に鶴ヶ島町となり、平成3年には鶴ヶ島市となりました。町制施行から鶴ヶ島市になるまでわずか24年と、スピード昇格でした。特に「一度も合併をしていない」ことが大きな特徴で、単独で村から市へと移行したのは全国的にもごくわずか。埼玉県内では、鶴ヶ島が唯一の自治体です。※2
先人の努力と英知によって築かれ発展し、村から市へ歩んできた道が、鶴ヶ島を物語る大きな歴史と言えるでしょう。
※2 蕨市も合併していませんが、村ではなく町として発足しました

◇龍神が市役所に出現⁉
昭和51年、脚折雨乞行事保存会によって行事が再開された脚折雨乞は、昭和59年以降四年に一度のうるう年に開催されてきました。当然、巨大な龍蛇が作られるのは行事の開催される年になりますが、実は、うるう年以外にも本番さながらの巨大な龍蛇が作られたことがあります。それは平成3年、鶴ヶ島の市制施行の年でした。
鶴ヶ島市の誕生を祝うため、市役所に竹や麦わらが運び込まれ、脚折雨乞行事保存会の皆さんによって巨大な龍蛇が製作されました。ロータリー脇に展示された後、多くの観客が見守る中、市役所敷地内を勇壮に練り歩きました。

《鶴ヶ島市で保有する昭和家電の一部》
※11月開催の企画展にて展示予定
1 洗濯機。
昭和20年代後半から普及しました。昭和40年代後半までは一槽式が主流で、ローラーの間で洗濯物を絞ることで脱水を行いました。冷蔵庫・テレビとともに、「三種の神器」と呼ばれました。

2 電気炊飯器。
昭和30年代には炊きあがると自動で電源の切れる自動電気釡が発売され、大ヒットとなりました。

3 黒電話。
日本電信公社(現NTT)が提供していたダイヤル式の固定電話機です。昭和30年代から一般家庭にも広く普及しました。

4 扇風機。
初期のものは鉄製でしたが、昭和20年代後半からプラスチック製で軽量になりました。

5 タイプライター。
日本語は文字数が多いため普及せず、ワープロに置き換わりました。

6 電気アイロン。
昭和10年ごろから普及し、昭和30年代にスチーム式の販売が始まりました。

7 足踏みミシン。
電気の前はペダルが動力でした。戦後広く普及し、嫁入り道具の定番でした。

8 蓄音機。
昭和初期から普及しましたが、一般家庭に広まったのは、LPレコードが販売された昭和30年ごろからでした。

9 機械式計算機。
歯車で計算を行う、現在でいう電卓です。昭和半ばには、役所やオフィスなどで広く利用されました。

10 テレビ。
昭和28年にテレビ放送が始まりましたが、庶民には高嶺の花でした。テレビ普及のために民放各社や電気店などが街頭テレビを設置すると、連日多くの人で賑わいました。

☆次回、昭和100年特別企画第3弾は、11月号を予定しています。ご期待ください。

問合せ:生涯学習スポーツ課文化財担当