- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県鶴ヶ島市
- 広報紙名 : 広報つるがしま 令和7年10月号
■戦後の復興村から市へ インフラ整備の時代、豊かさを求めて
今号では8月号に続き、終戦後、村から町、そして市へと歩む鶴ヶ島を振り返ります。純農村地帯であった鶴ヶ島は、インフラ整備により人口が急増。都市へと急変していく、まさに激動の時代でした。
【日本の経済復興】
昭和20年の終戦後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、民主化と経済復興が進められました。昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍などからの軍需品の発注が増加。鉄鋼・造船・繊維などの主要産業が急速に成長しました。
昭和35年には、池田勇人(いけだはやと)内閣が「所得倍増計画」を掲げ、公共投資の拡大や輸出振興、技術導入が積極的に進められました。その結果、高速道路や新幹線などのインフラ整備が進み、国民の生活水準が向上。昭和30年代後半からは「高度経済成長期」に入り、年平均10%前後という高い経済成長が続きました。
昭和39年の東京オリンピックや昭和45年の大阪万博は、日本の経済力と技術力を世界に示す象徴的なイベントとなりました。
【困難を極めた開拓】
鶴ヶ島村では政府の食糧増産体制により、戦時中から共栄地区(脚折、三ツ木、高倉、藤金、共栄町、上広谷の一部)で大規模な開拓が始まりました。
戦後になると、富士見地区では、旧陸軍坂戸飛行場の跡地を利用した開拓が始まり、昭和23年には富士見開拓農業協同組合が設立されました。※1開拓初期は、軍から払い下げられたテントや掘立小屋での生活が中心で、「穴を掘って住んだ」という証言も残されています。滑走路跡は地面が非常に硬く、ツルハシで掘り起こすなど、過酷な作業が続きました。
鶴ヶ丘地区では、アカマツ林跡地が開拓され、昭和22年に「鶴ヶ島開拓団」が、翌昭和23年には「鶴ヶ島開拓農業協同組合」が組織されました。共同出荷や技術習得の支援が行われるなど、地域の農業振興に貢献しました。
いずれの開拓も赤土で地味が乏しく、農業は試行錯誤の連続でした。電気が通ったのは昭和20年代後半で、それまでは灯油ランプやろうそくが夜の明かりとして使われていました。苦しい生活の中で離農する人もいましたが、多くの人びとが地域に根付き、後の市街化の礎を築きました。
※1 開拓地には、戦地からの引揚者、戦災者、復員軍人、農家の次男・三男らが入植しました
【独立に向けた鶴ヶ島の決断】
昭和28年に「町村合併促進法」が制定されると、翌昭和29年、埼玉県は鶴ヶ島村に対し、坂戸町・三芳野村・勝呂村・入西村・大家村(いずれも現坂戸市)との合併を勧告しました。
これに対し、鶴ヶ島村は自主独立の道を選びます。単独で「町」を目指すため、昭和29年に「工場誘致条例」を制定、翌年には独立維持を決議しました。昭和32年、埼玉県知事から再度の合併勧告を受けると、鶴ヶ島村はこれに対抗する形で「鶴ヶ島村建設計画」を策定、本格的に工場誘致を進めました。
その結果、昭和34年の養命酒製造第三工場(鶴ヶ丘)誘致決定を皮切りに、ノザワ東京工場(下新田)、日本ベルクロ(藤金)、東光埼玉工場(五味ヶ谷)、東洋電装(太田ヶ谷)など、次々と工場が進出しました。
これにより、鶴ヶ島村の産業構造は大きく変化。昭和34年には事業所数4社・従業員数126人だったものが、昭和37年には事業所数14社・従業員数1647人へと急増しました。
工場誘致の成功は地域に雇用をもたらし、周辺の宅地化や商店街の形成を促進するなど、経済の活性化に大きく貢献しました。高度経済成長期の波に乗り、鶴ヶ島は農業中心の村から、通勤・通学が日常となる都市型生活の町へと急速に移行していきました。
【鶴ヶ島町の誕生】
このような経済成長を受け、昭和34年、埼玉県は「人口規模や財政状況が適正規模の町村に準じている」ことを理由に、鶴ヶ島村に対する坂戸町との合併勧告を解除。人口も9千人を超え、鶴ヶ島村は自主独立の道を確固たるものにしていきます。大正3年に建てられた村役場も手狭となり、昭和40年、鉄筋コンクリート製の庁舎が建築されました。総工費は約3千万円でしたが、その半分以上は寄付金によって賄われ、建築工事には地元住民も参加しました。
そして、翌昭和41年に単独で町制を施行、鶴ヶ島は埼玉県で40番目の新しい町となりました。
