くらし 特集 名張に残る戦争の記憶(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 三重県名張市
- 広報紙名 : 広報なばり 令和7年8月10日号
戦後80年――。名張にも戦争の記憶が残っています。平和があたりまえにあるものではないことを、今一度、考えてみませんか。
■もっと早く戦争が終わっていれば姉は生きていた
平岡美智子さん(93)
◇がまん、がまんの子ども時代
戦争が始まったのは、私が錦生小学校3年の時でした。学校では勉強なんてほぼできず、運動場を開墾した畑に豆やイモを植えて農作業をする毎日。私は勉強がしたかったので、夜、外に光が漏れないよう布団の中へ明かりを持ち込んで、兄や姉に教えてもらいました。たくさんの子が疎開してきて教室がいっぱいになったり、職員室に入る時に敬礼して「平岡、用に参りました」と大きな声で言わないと叱られたりと、だんだん学校も戦争に染まっていったように思います。
◇姉を失った日
忘れもしない昭和20年7月24日の朝、女学校に通っていた私は、大阪に勤めていた姉と「じゃあね」と言って赤目口駅で別れました。授業中に出た空襲警報が解除されたので防空壕から出ると、今日は半日で学校が終わりだと言われ、電車が動いていなかったので友人と歩いて帰ることに。赤目まで戻ってくると、駅で銃撃があったことを知り合いから聞かされました。手の取れかかった人や頭を撃たれて血まみれの人が、助けてと泣いていたというのです。私は恐ろしくて駅には行けませんでした。遺体は赤目小学校の講堂に安置されたそうです。
トンネル内に退避していた姉の乗った列車も、空襲警報が解除になったので動き出しました。榛原駅に到着した時、赤目口駅を襲った飛行機が舞い戻ってきて機銃掃射を浴びせたそうです。運転席の近くに座っていた姉は、銃弾が心臓を貫通して即死。私たち家族には「怪我をしたからお寺にいる」と連絡があり、両親に代わって親戚が迎えに行って、初めて亡くなったのだと聞かされました。朝元気に別れた姉が、2時間も経たないうちに死んだと聞いても、信じられなくて。
両親もショックを受けて何も言えず、ただボーっとしていました。姉の最期の様子は、運よく生き延びた列車の運転手さんが、お葬式に参列してくれた時に教えてくれました。
それから3週間後の8月15日に戦争が終わりました。終戦の知らせを聞いて、「もっと早く終わっていれば姉は死ななかったのに」と思うと本当に悔しくて悔しくて。もう戦争は絶対にしてはいけないと強く思いました。
◇戦争を忘れない
悲しくつらい戦争をしていた時代があったことを忘れてはいけないと、小学校や地域のサロンで子どもたちに私の戦争体験をお話しました。今、平和な世の中になったのは、過去に辛い思いをした人がいたから。勉強できることに感謝してしっかり学んで、困難を乗り越えていってほしいと伝えました。子どもも大人もみんな楽しく暮らせる、平和な世の中がずっと続いていくことを願っています。
◆昭和20年6月13日・15日 下比奈知・新田への焼夷弾空襲
下比奈知と新田に焼夷弾が投下され、民家が全焼。新田では焼夷弾による火災が発生し、民家15戸をはじめ、合計56棟が全焼する被害がでた。
◆B29が青蓮寺に墜落 昭和20年6月5日8:40頃
映画「火垂るの墓」で描かれた神戸大空襲を終えた米軍爆撃機B29が、日本部隊の攻撃を受けて青蓮寺一ノ谷の山中へ墜落。搭乗員のうち2人は墜落時に死亡し、残りの9人は大阪・名古屋へ連行されて終戦前に処刑された。
地蔵院では、毎年地域の戦没者と共にB29搭乗員の供養を行っている。
◆蔵持小学校に機銃掃射 昭和20年6月9日午後
米軍機が蔵持国民学校(蔵小学校)などに機銃掃射。死者は出なかったが、校舎や講堂は銃撃に遭い、講堂にあったピアノにも銃弾が貫通した。
◆昭和20年7月24日9:00過ぎ 赤目口駅空襲
米軍グラマン3機が赤目口駅上空に飛来し、機銃掃射を浴びせた。駅は一瞬で血の海になり、約50人の尊い命が奪われた。ホームには今も銃痕が残っている。
■戦没者遺児 戦争で親を失った子どもたち
私の父は、私が生まれたことを知らない
杉本栄三さん(83)
「戦没者遺児による慰霊友好親善事業」に参加した杉本さん。母から手渡された父の写真を、およそ80年間肌身離さず持っている。
◇母一人子一人で戦後を生き抜いた
私の父は、新婚生活15日目に陸軍に応召されて、パプアニューギニアのブーゲンビル島へ出兵しました。一人息子が妻のお腹にいることを知らないまま、戦地へ赴いたのです。母は父の生存を信じていましたし、私もまだ見ぬ父が帰ってくるのを待ち望んでおりました。しかし、ついぞ父に会うことは叶いませんでした。昭和19年8月25日、父は遥か遠い地で、米軍の爆撃を受けて戦死したのです。
戦後の混乱の中を、私は母一人子一人で生き抜いてきました。米軍よりも、戦争を引き起こした人に腹が立ったのを覚えています。
◇初めて訪れた、父の最期の地
かねてより父が戦死した地への慰問を願っていた私は、平成17年に「戦没者遺児による慰霊友好親善事業」に初めて参加し、ブーゲンビル島を訪れたのです。
父の最期の地は、とても美しい島でした。私たちは現地の学校へ物品を寄附し、人々と交流した後、戦没者の追悼式を開催。私は父に「あなたのことは決して忘れません」と伝えました。父が戦死した地を訪れたことで、私の中の戦争が一区切りついたような気がします。
日本遺族会によって実施されてきたこの事業は、今年の開催で最後。節目の年だからこそ、皆さんに戦争について考えてもらえたら嬉しいです。