その他 特集 戦後80年 今、私たちにできること平和への訴え(1)

戦後80年を迎え、当時を知る人が少なくなる今こそ、戦争を体験した人々の声を聞き、考えることに意味があります。
今、私たちにできることを考えてみませんか。

◆人は同じ過ちを繰り返す 平和への思いを訴え続けていかないと

八島正明さん
昭和11年いなべ市藤原町生まれ。中学校の教員をしながら創作活動を続け、昭和36年に美術文化展初出品後、昭和50年に安井賞を受賞。作品は東京国立近代美術館、三重県立美術館他に収蔵される。春に自宅アトリエで展覧会を開催

▽終戦直後に亡くなった2歳の妹
気が付けばモノクロームの世界に引き込まれる―そんな力を持つ作品の数々。
作者の八島正明さんは、いなべ市藤原町生まれ。実像のない影の世界を多く描いてきました。88歳になった今も、藤原町にあるアトリエで制作を続けています。表現の根底には、幼少期の戦争体験がありました。
八島さんは、3歳の時に父親の仕事の関係で藤原町から名古屋市に転居しました。5歳のころに戦争が始まり、6歳ごろには毎晩空襲があったそうです。
「B29がたくさん飛んできて焼夷弾を落とすんです。最初は、花火のようでキレイだなと不謹慎なことを思ったんですけど、そのうちに民家が燃えてバーッと火の海になって、毎晩、怖かったです」
昭和19年の夏、小学二年生になった八島さんは、祖父母がいる藤原町へ疎開してきました。翌年には、両親と姉妹、東京や桑名の親戚も疎開してきたため、一時は祖父母の小さな家に26人で暮らしていました。
祖父の小さな畑では収穫物も少なく、次第に食料に困窮していきました。そんな中で終戦を迎えますが、食糧難によって幼い妹は栄養失調に。病院に連れていくこともできないまま、栄養失調と天然痘で、妹は2歳で亡くなりました。

▽広島平和記念資料館で見た影
その後、大学在学中に訪れた広島平和記念資料館で見た石段の展示が、八島さんを絵に向かわせました。
「係の人の話では、石段に人が座っていた時に原爆熱線が来て、人は蒸発したが、人が居たため熱線を遮断して人の影だけ残った、と。その石段の展示を見て、急に妹を思い出したんです。この原爆に当たった人は影を残したけど、僕の妹は写真も何も残っていない。何か妹を絵で残そうと思ったんです」

▽肉体が滅んでも、周りの人たちの中での魂は滅びない
絵に「影」を多く描く理由を、八島さんは「肉体が滅んでも、名前や身近な人の中の記憶といった魂(影)は滅びないから」と話します。
「黙っていたら、人は同じ過ちを繰り返してしまう。平和への思いを、訴え続けていかないと、と思います」
八島さんは、影のように滅びない「平和への思い」を、今もキャンバスに描き続けています。

◇八島正明さんの作品たち
〇「忘れたわけではない」愛知県美術館所蔵
2歳で亡くなった妹を描いた作品。着せてやることの無かった晴れ着の奥には、父と母の影を描いた
〇「旗の立つ町」三重県立美術館所蔵
掲げられた旗に描かれているのは、戦地へ家族を送り出した人々の影。国家より個人が大事であるべきとの思いを表現した作品。街並みは、北勢町阿下喜の西町通り
〇「影を呼ぶ影」
中央の青年は、若くして戦死した八島さんの親戚。その母親が自分の子どもに「会いたい、会いたい」といつまでも心の中で叫ぶ姿を表現
〇[独自の画法]
キャンバスに白い絵の具を塗った後、上から黒の絵具で塗りこみ、木綿針で削ると、黒の中から白い線が浮かび上がってくる画法。筆の代わりに、針仕事をしていた母の木綿針を割り箸に付けて使う
〇「影の花(征(い)かされた人)」
描かれた人は、八島さんの親族で戦死した人たち。「戦争がいかにひどいものかを、何も教えられないまま徴兵された」ことを「目隠し」で表した