- 発行日 :
- 自治体名 : 三重県いなべ市
- 広報紙名 : いなべ市情報誌 Link 2025年8月号(vol.261)
■いなべでの戦争の記憶
このまちにも、戦争は現実のものとして存在しました。戦時中の暮らしや学校生活、戦地に向かった家族と残された人々の思い…。
当時を生きた人たちの記憶とともに、80年前にこの地で戦争があったことを見つめてみませんか。
▽藤井賢治さん 94歳、絹枝さん 89歳(藤原町日内)
[賢治さん]学校では、校庭で芋を栽培したり、出征する兵隊さんを見送ったりしていました。国民学校高等科を出て、桑名市播磨にある工場に勤務し、そこで桑名空襲にあいました。防空壕に逃げたけど入れず、とっさに溝に伏せて、命からがらに逃げました。なんとか歩いて藤原に戻ってきてからも、食べるものに困りました。わずかな食べ物や日用品を当時の村長が分配して、みんなで分け合って暮らしていました。
[絹枝さん]昭和17年に父に召集令状が届き、昭和20年7月にニューギニアでマラリアにかかり亡くなりました。父と同じ部隊だった人が、終戦1年後に「やっと来れた」と訪ねてきて、父の最期を教えてくれました。
父の入隊後に母は、牛を使った米作りやカイコの飼育などで無理がたたり、冬になると病気で寝込むようになりました。私も農作業を手伝いましたが、作っても供出で取られてしまうので、麦を混ぜたご飯を食べていました。
▽岡正文さん 85歳(北勢町新町)
警報が鳴ると、仏壇にある仏様の掛け軸をリュックに入れて、防空頭巾をかぶり、300メートル離れた防空壕に向かって、田んぼのあぜを必死に走った記憶があります。焼夷弾から逃れるための防空壕は、地区のあちこちにあり、近所の家の防空壕に入れてもらったこともあります。
父は日中戦争と太平洋戦争で徴兵され、昭和19年に南方で病気になり帰国後亡くなりました。田んぼと畑をしながら、母は苦労をして姉と僕を育ててくれました。今までに「親父がおってくれたらなぁ」と思う瞬間もありました。こんな思いを若い人にしてほしくないです。戦争は本当にしてはいけないと思います。
▽伊藤淳治さん 89歳(北勢町其原)
小学3年生の時に、家族と一緒に大阪から疎開してきました。山郷村国民学校(現在の山郷小学校)では、毎朝、掃除・敬礼から始まりました。毎日、授業開始ごろになると警報が鳴り、防空頭巾を被せられて家に帰されました。毎日決まった時間に、名古屋方面に向かって飛んでいく空いっぱいのB29が見えました。
終戦間際の6月には、平野新田の西側に爆弾が落ちました。その日は、警報が鳴り、帰宅途中に友達と道沿いの小屋で遊んでいた時に「ドカーン」と大きな音がしました。学校で教えられていたので、すぐに目と耳を手で隠して身を伏せました。近くの建物のガラスが割れ、地震よりも大きな地響きで、すごく怖かったです。爆弾の他に、学校の近くの畑には、何日も焼夷弾が落ちたこともありました。
麻生田駅で旗を振り、兵隊さんの見送りもしたけど、心から「万歳」と思えなかったです。若い人を戦争に送り出す世にしてはいけないと思います。
▽加藤美代子さん 81歳(員弁町松之木)
父は昭和19年に招集され、中国で終戦を迎えた後にシベリア抑留され、昭和20年12月に亡くなりました。当時、私は2歳でした。小学3年生のころに、父と一緒にシベリア抑留されたという人が「生き残った者の務めだ」と言って訪ねてきました。「シベリアでは、夜になるといつもあなたのことを話していたよ」と教えてくれました。父は「いい子に育ってね」と伝えたそうです。
若い人たちには、平和の素晴らしさを知ってほしいです。
◇今なお残る戦争の跡
▽大安町門前の防空壕
大安町門前に残る防空壕は、梅戸井村国民学校(現在の笠間小学校)の奉安殿の御真影を戦火から守るために掘られたものです。実際には、一度も御真影を入れることはありませんでした。
現在は崩れて、その一部分が残っていますが、当時は何人もの人が入れるほどの大きさでした。
「御真影を退避させるための防空壕で、学校の先生が管理していました。子ども心にこの防空壕を誇りに感じていました。昭和20年の四日市空襲や桑名空襲の時は、近所の人たちがこの防空壕の前に集まり、空襲の炎を見ました」
萩野かず子さん 88歳(大安町門前)
◇戦時中の暮らしを知る場
▽いなべ市郷土資料館
住所:藤原町上相場838
【電話】46-2526
休館日:月、火、年末年始
いなべ市郷土資料館は、昔の人が使っていた生活用品などを数多く展示しています。
展示コーナー「平和への願い」では、戦時中の住民の暮らしが分かる防空頭巾や代用陶器などが展示されています。