くらし 【特集】戦後80年 平和への思いを紡ぐ(1)

太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)終結から80年、戦争を知らない世代が多くなり、また、戦争の体験を聞く機会も少なくなっています。今回の特集では、伊賀市史などの資料から戦争の記憶をたどり、平和の思いを紡いでいきます。

■戦争の記録と伊賀地域関連のできごと
◇1931(昭和6)年 満州事変勃発

◇1937(昭和12)年 盧溝橋(ろこうきょう)事件 日本と中国の間で戦闘が激化
伊賀地域出身兵士の多くが入隊していた歩兵第33連隊(久居)は、徐州会戦や漢口攻略作戦などに従軍しました。満州事変以降の日中間の戦いで約300人が亡くなり、特に徐州や漢口の戦いで多くの戦死者を出しました。

◇1941(昭和16)年12月8日 真珠湾攻撃 アメリカと戦闘状態に入る
真珠湾攻撃以降、太平洋戦争では中国やフィリピンなどのアジア諸国や太平洋の島々にわたって戦線が拡大しました。伊賀地域出身兵士も3,000人近くが戦病死しています。亡くなった戦地で最も多いのはフィリピンで24.7%、次いでインド・ビルマ(ミャンマー)が20.3%、中国が14.8%となっています。他でもアジア・太平洋の島々や満州、シベリアでもたくさんの人が亡くなりました。

◇1942(昭和17)年4月18日 アメリカ軍による日本本土攻撃
ドーリットル空襲により伊賀上野で初の空襲警報が出されました。

◇1943(昭和18)年 伊賀上野への海軍航空基地建設が計画される
ドーリットル空襲や戦況の悪化により、伊賀上野に海軍航空基地の建設が計画されました(左ページ(3)(本紙参照))。1943(昭和18)年10月から、掩体壕(えんたいごう)(飛行機を爆撃から守る壕)や横穴トンネルの掘削作業が進められました。飛行場の整地や周辺整備は伊賀地域の住民の勤労奉仕によって1945年5月頃まで行われました。5月には滑走路が使用できるようになり、第1001海軍航空隊(雁(かり)部隊)が着任しました。この航空隊は名古屋、四日市などで製作された航空機を各地に輸送する任務に就いていました。

◇1944(昭和19)年3月 インパール作戦
日本軍はインドの都市インパールを攻略するため、3つの師団を繰り出しました。補給物資を人力や牛で運ぶしかなかった日本軍に対して、イギリス・インドの連合軍は日本軍を引き込んでから反撃するという作戦で対抗したため、補給が続かなくなりました。撤退を始めた将兵は病や飢えで次々に倒れ、「白骨街道」と呼ばれる程の惨状でした。伊賀地域から出征した兵士のインド・ビルマ方面での戦死者の多くは、このインパール作戦に従事した兵士でした。

◇1944(昭和19)年10月 レイテ島の戦い
1944(昭和19)年9月、日本の占領下にあったフィリピンの奪回をめざす連合国軍との戦いにおいて、歩兵第33連隊はフィリピン中部のレイテ島に派遣され、防衛を担当することになりました。レイテ島に集結していた部隊は、歩兵第9連隊、野砲兵第22連隊、工兵第16連隊などで、その隊のいずれも伊賀地域出身兵士が多く従軍していました。第33連隊は10月20日に上陸してきたアメリカ軍と激しい戦闘を繰り広げますが、12月までにほぼ壊滅することとなりました。

◇1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分 広島市への原子爆弾の投下

◇1945(昭和20)年8月8日 午前10時 伊賀線への機銃掃射
近畿日本鉄道「伊賀線」上野市行き2両編成の車両が、比自岐川にかかる鉄橋に差し掛かったとき、米軍艦載機が上林駅方面から低空飛行で飛来して、走行車両に向け機銃掃射を行いました。機銃弾は列車を斜めに横断するように撃ち抜いたと言われています。女性の車掌を含む12人が死亡、23人の重軽傷者が出ました。この日の1時間前には美旗駅でも機銃掃射がありました。また、12日前の7月27日には、依那古国民学校に25kg爆弾が投下され、この爆撃では人的被害はありませんでしたが、校舎は大きな被害を受けました。

◇1945(昭和20)年8月9日 午前11時2分 長崎市への原子爆弾の投下

◇1945(昭和20)年 8月15日 終戦