くらし 特集あなたにとっての平和とは? 終戦から80年 平和を守るために(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 京都府久御山町
- 広報紙名 : まちの総合情報紙 広報くみやま 令和7年10月1日号 No.1176
■未来へつなぐ戦争体験
京都府原爆被災者の会 榎郷子(えのききょうこ)さん 91歳
8月15日の平和祈念集会の後、被爆体験者の榎さんに講演をしていただきました。
▽被爆をした8月6日
広島に原爆が投下されたのは私が国民学校(現在の小学校)5年生の時でした。
当時はお寺や親戚の家に疎開している人がほとんどでしたが、私は疎開しない残留組でした。8月6日は月曜日だったので、本当は学校に行く日だったのですが、その日は父が休みで、「お父ちゃんがおるけえ学校にいかん」と言って、ずる休みをして両親と3人で爆心地から約2キロメートルにある自宅にいました。
▽一帯が焼け野原に
よく原爆のことを「ピカドン」と言いますけれど、私は「ドン」という音は聞いていないんです。3人で茶の間にいたときに、突然世の中すべてが真っ暗になって、ピカッと稲妻が走り、気づいたら家の中はグチャグチャになっていました。奇跡的に私は無傷でしたが、父は爆風で庭へ飛ばされ、左足の薬指がもげ落ちかけていました。一番酷かったのは母でした。爆風で粉々になったガラスで、64か所から出血していました。何とか家の外に出ると一帯が焼け野原になっていました。当時は原爆なんてものを知りませんから、何が起きたのか分からず、近所の人たちは口をそろえて「うちに直撃弾が落ちてきた」と言っていました。
▽「もうええけえ、逃げてください」
隣の家が崩れ、奥さんと2歳になる男の子が下敷きになっていました。外にいたご主人が「家内が中におるんです」と叫んでいました。近所の人で助けようとしましたが、梁がどうしても動きませんでした。
中にいる奥さんの「もうええけえ、みんな行ってください。もうええけえ、逃げてください」と言う声が聞こえ、次第に炎が大きくなってきたので、気の毒だけどみんな逃げたわけです。
あの時の奥さんの声は今でも耳から離れません。
▽今もまだ帰ってこない次姉
当時女学校に通っていた姉2人を含め、家族でもし何かあったときは庚こうご午にある親戚の家に集まろうと決めていたので、出血多量で意識を失いかけていた母を乳母車に乗せ、父と3人でひたすらに歩きました。
避難の道中は、歩いている人がバタバタと倒れ、息絶えていたり、燃える橋を横目に上流から人が流されていたりと、今では考えられない状況でしたが、当時はとにかく逃げることに必死でした。
私たち3人は、なんとか無事に親戚の家にたどり着き、翌日には山に避難していた長姉とも合流することができました。次第に母の体調も回復してきましたが、爆心地近くの女学校に行っていた次姉が避難してくることはありませんでした。
8月6日の朝に「行って帰ります」と家を出て行った当時12歳の次姉は80年たった今でも行方不明のままです。
▽二度と戦争が起きないように
私もいつも通り学校に行っていたら生きていなかったかも知れませんね。悪いのは原爆だけじゃありません。戦争全部が悪いんですからね。
若い人たちには二度と同じ体験をして欲しくありませんから、戦争の恐ろしさを知ってもらい、未来へ平和を引き継ぐために、体が動く限りは語り継いでいきます。
