くらし 文化財を市長が巡る ブラタカシ(1)

動画は市公式YouTubeからご覧ください!第1弾(古代都市編)、第2弾(寺内町編)もこちらから
※二次元コードは本紙参照

枚方市長…伏見 タカシ「宿場町編、念願だったんです」
文化財課…井戸 竜太「今回は枚方宿に関わる痕跡を案内します!」
広報プロモーション課…大井 葉月「街を見る目が変わりますね~!」

■宿場町・枚方は地下に眠る?!
枚方宿発展の礎、その知られざる歴史をひもとく
戦国時代、天下統一を目指した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。天下人とも称される彼らの影響力は、実は枚方の発展にも大きく関わっていました。伏見タカシ市長が文化財課職員を案内人に市内の文化財を巡りながら、某テレビ番組風にぶら歩く「ブラタカシ」第3弾。戦国時代の軍事戦略的な拠点から、近世都市・枚方宿へ。現在の枚方市駅周辺の発展につながる歴史をひもときます!

案内人:文化財課…井戸 竜太(いど りょうた)
平成28年入職。「近世の歴史の中でも、枚方がいかに重要な場所として名だたる人物に注目されていたかをぜひ知ってほしい」と熱く語る。

◆痕跡1 戦国時代、豊臣秀吉が目を付けた枚方
□秀吉は枚方で休んでいた?!
枚方宿ができる前の戦国時代、現在の三矢町周辺の丘の上には、御茶屋御殿(おちゃやごてん)という立派な休憩所がありました(左絵図)。江戸時代の記録から、御殿は豊臣秀吉が建てたことが分かっており、秀吉自身も利用していたようです。なぜ秀吉は、御殿を枚方に建てたのでしょうか。

□伏見城と大坂城 2つの本拠地間の拠点
天下統一を果たした秀吉は、大坂城を本拠地とします。その後京都に伏見城を建て、大坂~伏見間の交通インフラの整備に取り掛かります(下図黄線参考)。枚方から大坂にかけては、堤防と街道を兼ねた文禄堤(ぶんろくつつみ)を造り、淀川の水運と共に陸路も整備しました。御茶屋御殿はそれらの道中の拠点をつくる目的で建てられたと考えられています。大坂と京都の中間に位置し、高い丘陵地形がある枚方は、大坂を守るにも攻めるにも重要な土地だと、天下人は見抜いていたのでしょう。

□織田信長も枚方の価値を見抜いていた
枚方の地理的条件が、政治・軍事・経済政策に価値があると信長も目を付けていました。大坂の石山本願寺を総攻めした信長の軍団は、高槻方面から枚方へ淀川を渡り、そこから東高野街道を南下して天王寺などに陣を構え、石山包囲網を作りました(左図緑線参考)。信長の権力や体制を継承した秀吉は、こうした信長の考えを参考にしていたと思われます。

◆痕跡2 徳川の時代に枚方が果たした役割
□家康の構想で置かれた「枚方宿」
天下人の先輩である信長・秀吉と同じ視点から、徳川家康も大坂の陣の際に枚方の地を戦略拠点として十分に活用します(4ページ図赤線参考)。大坂の陣に勝利し天下を平定した徳川幕府は、江戸を中心とした交通体系の最重要路線として大坂までの東海道を整備します。秀吉が整備した交通インフラを東海道の延長部に組み込み、江戸の品川から数えて56番目の宿場町として「枚方宿」を設置しました。

□参勤交代で進んだ都市化
東海道の57宿が整備された寛永年間(1624年~1644年)頃には、大名家の参勤交代が制度化されます。枚方宿には大名の宿所として本陣が置かれ(右絵図参照)、その付近に枚方浜という川港も整備され、参勤交代の大名行列を迎えました。西国大名の多くは枚方宿で泊まり、そこから東海道を上り江戸を目指します。枚方宿は、西国大名にとって江戸への最初のチェックポイントであったようです。訪れた武士などの数は、毛利家では数百人、紀州徳川家では宿場町の人口を上回る1500人以上にも及ぶ規模でした。参勤交代などを機に、枚方宿は地域社会を貨幣経済へ巻き込んでいき、枚方の都市的発展が始まります。

※詳細は本紙をご覧ください。