文化 市史だより Vol.315

■伯太藩杉浦家の日記から
上級藩士のおしごと
江戸時代の武士、彼らは主君(しゅくん)に忠誠を誓い、主君のために働く毎日を送っていました。その仕事ぶりをちらりと覗(のぞ)いてみましょう。

江戸時代の和泉市には渡辺氏という大名がいました。一万三千五百石の領知(和泉・河内・近江のうち40か村)を支配し、譜代大名(ふだいだいみょう)として18世紀前半から幕末まで伯太に陣屋(じんや)を構えていました。
この伯太藩のお殿様に仕えた杉浦家という家臣がいます。江戸時代初めからの古参(こさん)家来で、家老を勤めたこともある上級家臣です。幕末に作られた伯太藩士の名簿「分限(ぶげん)帳」では、杉浦重真(しげさね)(久太夫(きゅうだゆう))は物頭格(ものがしらかく)として上から4番目に列記され、大目付元締(おおめつけもとじめ)という職を与えられていました。
大目付というのは、江戸幕府においては全国の大名の統括をする役職ですが、各大名家内においては、家来の統括を担ったと考えられています。幕末の重真の日記から、彼の日常の業務をみてみましょう。
嘉永7(1854)年は藩主章綱(あきつな)の参勤交代の年でした。この年の日記は6月7日から始まります。江戸に到着してまもなく、伯太藩から老中松平和泉守(まつだいらいずみのかみ)に送った挨拶状が書き写されています。挨拶状は老中のほか幕府大目付・目付・先手・祐筆(ゆうひつ)などへも届けられました。
その後、伯太から江戸までの道中で「御馳走」になった大名へお礼の使者を遣わしました。「御馳走」といっても食事の饗応(きょうおう)ではなく渡し舟を用意してもらうなどの対応だったと思われます。
17日になり、ようやく老中から、江戸城登城の許可が下りますが、章綱にめまいと頭痛があり、辞退することになりました。重真は、失礼の無いよう過去の事例を参考にお断りの書状の文案を練らねばなりませんでした。また、老中と若年寄に対し、恒例の献上の品である太刀と馬代銀(うまだいぎん)を贈る手配も必要でした。
参勤到着の一連の儀礼が済むと、次は暑中見舞いの品を贈る用意です。品物は麻布や玉子で、老中はじめ送り先は十件にのぼります。また、同じ年のお歳暮には干鯛のほか酒代や昆布代などを幕府役人や寺院へ贈っています。
このように、重真の日記をみると、幕府役人や他の大名家に対して挨拶の書状を送ったり、金品を贈ったりという記述が長く続きます。書状は文面を書き写すことはもちろん、使用した紙の種類や折り方、包み方、品物を贈る場合はのし紙の巻き方など、仕様をこと細かにメモしています。また使者として派遣した家臣の名前やランクも記しており、送り先によって遣わす使者の格も異なったようです。
大目付である重真の業務は他にもあるはずですが、この日記では贈答儀礼(ぎれい)についての記述が中心でした。武家社会において儀礼や交際の作法がいかに重要視されていたかが垣間見えます。こうした礼儀作法に間違いが無いかを監督するのが大目付の職務の一つであったのでしょう。

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