- 発行日 :
- 自治体名 : 愛媛県上島町
- 広報紙名 : 広報かみじま 2025年11月号
(1)積善山遺跡第1次発掘調査現地見学会
(2)令和7年9月13日(土) 10:30~15:00 晴れ後曇り
(3)上島町弓削岩城 積善山展望台
(4)参加者 27名
9月13日(土)に、岩城島にある積善山遺跡において、愛媛大学法文学部考古学研究室と上島町教育委員会の主催による積善山遺跡第1次発掘調査現地見学会が開催されました。
◆上島町の最高所にある積善山遺跡
積善山遺跡は、岩城島のほぼ中心にある標高約370mの積善山の山頂部に位置する遺跡です。平成元年(1989)に山頂部にある旧展望台跡地に新展望台が建設され、その際に郷土史家の児島公尊さん(故人)によって北側斜面からサヌカイト(讃岐岩)の剥片や弥生土器が採取されました。その弥生土器には口縁部(土器の口の部分)に凹線の入った土器(凹線文土器)が見られることから、積善山遺跡は今から約2,000年前の弥生時代中期後葉の高地性集落遺跡と考えられています。
本遺跡は生名島北部の立石山山頂にある立石山遺跡とともにこの地域を代表する高地性集落遺跡ですが、これまで山頂付近での発掘調査は実施されていませんでした。山頂からは、西条市の八堂山遺跡や香川県荘内半島の紫雲出山遺跡といった瀬戸内海地方を代表する高地性集落遺跡を遠望することができます。
◆発掘調査と現地見学会
弥生土器が採取された積善山遺跡の残存状況と高地性集落としての性格・機能を明らかにすることを目的に、9月3日(水)から17日(水)まで発掘調査を行いました。調査では、積善山山頂部にある展望台周辺に設定した調査区である2トレンチからタタキ目が見られる須恵器の甕の胴部片や口縁部に凹線文が施された弥生土器が出土しました。また、4トレンチからも弥生土器の可能性のある土器片が確認されました。一方、積善山山頂部から離れた1トレンチと3トレンチでは比較的浅い位置で岩盤が検出され、遺物包含層(土器や石器等の遺物を含む土層)は残存していませんでした。これらのことから、遺跡の主体は山頂展望台付近にあるとみられます。今後、高地性集落遺跡として認知されている積善山遺跡とともに周辺遺跡の調査を行うことによって、島の弥生文化及び歴史を解明し、それらを地域資源として生かすことを考えています。
調査の終盤に開催した現地見学会では、発掘調査箇所を公開するとともに、児島公尊さんが積善山山頂付近で採集した弥生土器を展示しました。会場には遠方から訪れたサイクリストや観光客の姿もありました。本見学会は、参加者の皆さんが積善山山頂からの景観を楽しみ、古の積善山の歴史に思いを馳せる機会となりました。
◆高地性集落遺跡
縄文時代に続く弥生時代は、日本列島で灌漑をともなう本格的な水稲農耕が始まった時代です。一方、平地からの高低差があり水稲農耕に不向きな山や丘陵での発掘調査や踏査等によって、当時の人々の遺物が発見されることがあります。
生名島北部の立石山(標高約139m)の山頂部にある立石山遺跡では、昭和50年(1975)に学術調査が行われました。発掘調査では後期旧石器時代のナイフ形石器や古墳時代の須恵器が出土していますが、出土遺物の多くは積善山遺跡と同様に弥生時代中期後葉の凹線文土器です。また、山頂部のわずかな平坦地を覆う花崗岩群は石神・磐座・磐境等で構成され、これらは神々や祖先を祀る祭祀遺跡であると考えられています。立石山にある石神は、立石、陽石とも呼ばれ、「立石山」という山名の由来であると伝えられています。
弥生時代の高地性集落遺跡は主に大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけて分布し、その中には狼煙跡と推定される焼け土を伴う例や、狩猟用とは思えない大型の石鏃等の武器の出土がみられる例があります。しかし、積善山遺跡と立石山遺跡については、出土遺物や遺構等から現段階では軍事的・防御的機能を証明することはできません。一方、両遺跡の特徴として、海への眺望に恵まれ、海からの視認性が高いことが挙げられます。積善山遺跡と立石山遺跡は、臨海や山腹の集落と密接に関わりながら、海上交通のランドマークとしての機能を備えていた可能性があります。
