文化 今年は生誕、150年 日本のビール王と呼ばれた男 髙橋 龍太郎(2)


知ればあなたもファンになる 龍太郎さんの「すごさ」と「素顔」

ここで紹介する偉業やエピソードは、町誌や文献、龍太郎に関わりある地域の人たちの話をもとに掲載しています。あまりの功績の数に驚くとともに、挑戦し続けた人生だったことが分かります。偉大さだけでなく、龍太郎の優しさや懐の深さも伝わってきます。

●ビールに関する偉業
○入社半年でビールの本場へ 6年間ドイツで猛勉強
大阪麦酒に入社してすぐにドイツに留学した龍太郎。当時、会社にはビールを醸造できる日本人がおらず、ドイツ人技師に頼っていた。会社は「日本人の手で、日本人の口に合うビールを造りたい」と、大学で機械工学を学んだ龍太郎なら、醸造方法と機械操作の両方を習得できると期待し送り出した。ドイツ語も話せないまま出発し、現地では実習や研究を行い、約6年間、懸命に学び会社の期待に応えた。
◇私生活では――
ドイツから帰国した翌年の明治38年、31歳のときに大阪麦酒の支配人・生田秀(ひいず)の娘、ミツと結婚。5男3女に恵まれた

○ビールに情熱を注ぎ会社の工場長に抜擢
留学を経た龍太郎は「外国のビールに劣らない、うまいビールを造りたい」という思いが増す。帰国後は吹田工場で技師として働き始め、ドイツで培った技術を発揮し、ビール造りに邁進する。明治39年には大阪麦酒と「エビス」の日本麦酒、「サッポロ」の札幌麦酒の3社が合併し、「大日本麦酒株式会社」が誕生。龍太郎はその工場長を任され、国内最大のビール工場をまとめ上げ、日本のビール業を先導していった。

○大日本麦酒の社長へ 日本のビール王と呼ばれる
昭和10年、会社はドイツビールの権威・リューエルス博士を日本に招いた。博士は「日本人の手で完成されている」とその味を高く評価。龍太郎の「日本人の手で外国のビールに負けないうまいビールを造る」という夢がかなった瞬間だった。その後、龍太郎は62歳で社長に就任。ホップの完全国産化を成功させるなど、さまざまな功績を残した。大日本麦酒は世界三大麦酒会社の一つとなり、龍太郎は「日本のビール王」と呼ばれた。

○多くの人に慕われ過ぎて銅像がたくさんある
龍太郎は技術者時代から人を大切にしており、経営者を引退後も会社の相談役として後進の支援に努めた。後輩たちは龍太郎の偉業をたたえ、吹田工場内に銅像を建立。龍太郎にも座像を贈っていて、「社員の信望極めて厚し」などの言葉が刻まれている。地元では90歳を記念して、有志が内子中学校にレリーフ入りの記念碑を建立。龍太郎は除幕式への参加はかなわなかったが、お礼の言葉を録音したテープを送ったという。

●ビールだけじゃない
○第三次吉田茂内閣の通商産業大臣を務めた
昭和26年、第三次吉田茂内閣の通商産業大臣に就任。総理から要請された時は重責に悩んだが、引き受けることに――。76歳での挑戦だった。地元にとっては大きな喜びで、同年に龍太郎が帰郷したときには、地域の子どもたちがお祝いに旗を振り、歌を歌って出迎えたという。そのほか日本商工会議所会頭や日独協会長など、さまざまな要職を務めた。与えられた役目に全力を尽くし、戦後の日本経済の復興に貢献した。

○私財を投げ打ちプロ野球チームを設立
当時のパ・リーグ総裁に、球団設立を持ち掛けられた。大の野球好きでもあり、「日本の球界発展のためなら」と一大決心。私財を投じ、79歳で「髙橋ユニオンズ」を設立した。しかし集まったのは全盛期を過ぎた選手ばかり――。「史上最弱」といわれ3年で解団した。龍太郎はどんなに負け続けても毎試合、球場を訪れ選手を励ました。看板選手だった佐々木信也(しんや)さんは「こんなオーナーのもとで野球ができて幸せ」と話したという。

◇髙橋ユニオンズ
大日本麦酒の主力商品だった「ユニオンビール」が、球団名の由来。「団結」の意味も込められている

○72歳でサッカー協会の会長に 日本サッカー殿堂入り
昭和22年から7年間、戦後の大変な時代に日本サッカー協会の会長に就任。サッカーは戦争で命を落とした5男・彦也(ひこや)が、熱心に打ち込んでいた。息子を立派な人間に育ててくれたサッカーへの恩返しの気持ちを込めて、会長を引き受けた。就任した年には天覧試合を開催。試合後には昭和天皇とまだ10代の現・上皇陛下をグラウンドへ案内した。サッカーの発展に尽力し続け「日本サッカー殿堂」にも選ばれている。

○多芸・多才で書や将棋がプロ並み
たゆまぬ努力により、龍太郎は書や将棋でも優れた才能を発揮した。書は近代日本の書家・山本竟山(きょうざん)に師事。若い頃には「肱水(こうすい)」、晩年には「在田(ざいでん)」の号で多くの書を残した。母校・松山東高等学校の創立80周年には「至道無難只嫌揀擇(道に到達するのは難しくはない、ただより好みを避けよ)」という扁額を贈っている。将棋は名人・阪田三吉(さんきち)の門下生として指導を受け、3段の腕前。その「芸」は、人間関係を育むうえでも大いに役立ったそう。

●親しみが湧くエピソード
○episode1 地元の子ども達へ投資
龍太郎は内子中学校へグランドピアノを寄贈したり、内子小学校へ寄付をしたりと、未来を担う子ども達への投資も惜しみませんでした。寄贈されたピアノは今も大事に使われていて、合唱コンクールの練習などで生徒たちが弾いています。

○episode2 町民の心に残る龍太郎の記憶
70~80代の人には、龍太郎が大臣に就任して帰郷したときのことを今でも覚えている人もいます。取材では「龍太郎さんへ贈ったお祝いの歌を今も歌える」「龍太郎さんに頭をなでてもらった」「子どもながらに内子から大臣が出たことを誇りに思った」など、当時の思い出をうれしそうに話してくれました。

○episode3 \学生時代の/あだ名はオンリーナイン
松山中学1年の頃、久万高原町に一泊旅行をしたときのこと。宿で夕食のご飯のお代わりを何度もしていた龍太郎は、「何杯目か」と聞かれたところ「たった9杯」と答えたそうです。以来、「オンリーナイン」のニックネームがついたといいます。米の食べ過ぎで脚気になったというエピソードも残っています。