くらし 戦後80年 平和のたすき(2)

■戦没者遺族の声(2)
▼母の苦労する姿が、脳裏にこびりついているー
田中久光(たなかひさみつ)さん

○返ってきたのは〝石〟だった
「三股町遺族協助白菊会」会長として、神宮司さんたちと共に活動してきた田中久光さん(83)。昭和40年から約40年間、中学校教員として、県内の中学校に勤務していました。
田中さんの父・一夫(かずお)さんは、昭和19年12月19日、乗っていた空母「雲龍(うんりゅう)」が敵の魚雷攻撃に遭い、戦死しました。
資料によると「雲龍」では乗組員1241人が戦死(注)。田中さんが3歳、父・一夫さんが29歳の時のことです。
「戦後になって母に聞いた話ですが、遺骨は返ってこなかったそうです。届いたのは、骨壺のようなもの。中を開けると、遺骨の代わりなのか〝石〟が入っていたそうです」と話します。
一夫さんが戦死したことを知り、一家は母・ナツさんの実家のある本町へ。それからは、祖母、ナツさんと3人で生活していくことになりました。

○父の乗る船が出港したとき、幼い私は涙した
都城市内の郵便局に勤めていた一夫さん。昭和18年、いわゆる「赤紙」で軍に召集されました。その後、呉(広島県)の養成所で訓練を受けたそうです。
一夫さんが乗っていた雲龍の母港は、佐世保(長崎)。「当時3歳だったので記憶はありませんが、私は母と共に、当時住んでいた中郷(都城市)から佐世保に行き、父の乗った船を見送ったそうです。後年『雲龍が出港したとき、久光が大泣きした』と母が語っていましたね。まだ幼少の頃でしたが、私は何かを感じたのかもしれません」と話します。これが、一夫さんとの最後の別れになりました。
昭和19年12月17日、雲龍は、「『マニラ』方面緊急輸送の重大任務」のもとに、呉を出港(注)。2日後の19日に沈没し、一夫さんは亡くなりました。

(注)「昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030585900、昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報(防衛省防衛研究所)

○脳裏にこびりつく、母の姿
昭和19年12月に一夫さんを亡くし、それ以降しばらくは、祖母、ナツさんと3人で生活していた田中さん。「母の苦労する姿は、今でも脳裏にこびりついています」と話します。
昭和23年頃から、ナツさんは町内の郵便局で働くことになりましたが、終戦からその間は、特に厳しい生活だったと振り返ります。
「郵便局に就職するまでの3年間、母は行商をして稼いだり、行政の支援を受けたり、父の遺品である軍服を売って収入を得たりして生活していました。ある時は、門川町まで遠征して塩を仕入れ、三股町内で売り歩いたこともあったと記憶しています」と話す田中さん。ナツさんが苦労する姿を見て「大人になって、早く母を楽にしてあげたい」と考えていました。決して楽ではない生活が続いていましたが、ナツさんが郵便局で勤め始めてから、生活は少しずつ安定。「母が家を買い、祖母宅から引っ越したころに、ようやく心のゆとりができました」と振り返ります。

○みんなが大変な時代
実は、田中さんには、姉と弟がいたそうです。しかし、2人とも、生後間もなくして亡くなりました。「戦時中のことなので、恐らく栄養失調でしょう。母は、そのことについてほとんど触れることはありませんでした」と話します。
2人の姉弟を亡くした田中さん。高校卒業まで、ナツさんと協力して日々の生活を送っていました。
郵便局で勤めていたナツさんは、当時、電話交換手として働いていました。日中だけでなく夜の勤務もあったため、田中さんは、買い物やご飯の準備など、家事をこなしていたそうです。
それでも田中さんは「みんな一緒ですよ。みんなが、大変な時代でした」と振り返ります。

○〝慰霊〟を絶やしてはならない
現在、田中さんは町遺族協助白菊会の会長を務めています。「戦没者の皆さんの犠牲のもとに、私たちの生活は成り立っています。だからこそ、私たちは戦没者を追悼し、これからも平和を祈り続ける必要があります」と力を込めて話します。
しかし、田中さんも、追悼行事に参加することが難しくなっているといいます。
「毎年、長崎県佐世保市にある海軍墓地で慰霊祭が行われており、以前は出席していました。でも、年齢を重ねて遠出することが難しくなり、最近は出席できずにいるんです」と悔しさをにじませます。
田中さんは、宮崎の護国神社例大祭や、早馬神社横の忠霊塔で行われる町社会福祉協議会主催の「戦没者慰霊祭」には毎年参列していますが、年々参列者が減少しているといいます。「これまで白菊会には、戦没者の〝妻〟もいらっしゃいましたが、皆さん、亡くなりました。今は、私たち〝子世代〟やその下の世代で構成されています」と白菊会の現状を話します。
「父のように戦地で命を落とした人たちの苦しみ、そして父を失った私たち遺族の苦しみを、今を生きる皆さんや、これから生まれてくる子どもたちには、味わってほしくないんです」と、力を込める田中さん。これからも、自らの父親や戦争で亡くなった人たちへの慰霊を続けるとともに、平和を祈り続けます。

■「戦没者への慰霊を絶やしてはならない」
戦後80年もの間、不断の努力によってつないでこられた平和のたすき。これは、戦争で犠牲になった人たちの遺志を継ぎ、戦後の苦しい時代を乗り越えてきた人たちがつないできてくれたものです。
そして、たすきをつないできてくれたからこそ、今日の平和な生活が存在しているのです。
さて、これから先、このたすきは誰が手にすることになるのでしょうか。