文化 資料館だより(545号)

■戦後80年(2)
前号の続きを掲載します。
当時の油久国民学校(小学校)第15代の柳田義丸校長の訓えは、「疎開は長期に亘ると思うから、自給自足の体制を作られよ。児童の健全な心身を、細心を払って保持されよ。」分宿、合宿、不々の様子を連絡することとし、それぞれの家族が安心出来るようにとその思いを巡らせていたという記録があります。
引率した春田教頭の報告では、油久小学校の児童は、薩摩町の求名小学校に疎開したが、最初の2週間は信徳寺での大合宿でした。その後、薩摩町内の各家庭に、1人または兄弟で分宿することになり、不安で疎開生活を過ごした児童も、薩摩町内で暮らしている家庭で、それぞれ世話になることになったとあります。戦時中で食べるものが無い時勢だったが、児童は薩摩町の方々に温かく迎えられました。
昭和43年に発行された薩摩町の郷土史には中種子町から薩摩町に疎開した事について、当時の様子が詳しく記載されています。
戦争終結後、帰心矢の如き児童も暫く帰島することになり同年9月20日に帰郷の途に着いたが、天候の影響で9月24日に無事種子島の両親のもとに帰りました。その後、求名を訪れる児童も多く、また呼ばれて種子島の児童の家に行くものも多いです。疎開が縁で結ばれた親子兄弟の縁は当分続いていくでしょう。と結んでいます。
今でも、さつま町と中種子町の交流事業は、小中高校生を対象に、お互いの町を訪問することで、その絆を深めています。悲惨な戦争というものがきっかけではあるが、そんな悲惨な戦争を忘れないためにも、その戦争を体験した人々の生の声を、語り部として記録に残し、私たちの心に残す戦後80年であってほしいです。
中種子町文化財保護審議委員 濵脇時則