くらし 【特集2】戦後80周年 語り継ぐ記憶、つなぐ平和(1)

■戦争の記憶
北海道全域に空襲があった昭和20(1945)年7月14日、15日に本市にも米軍艦載機が襲来し、王子製紙や勇払の大日本再生製紙(現在の日本製紙(株))の工場、市街地への機銃掃射や爆撃が行われました。特に被害が大きかった錦岡では、14日にイワシ漁に出ていた漁船が機銃掃射の攻撃を受けました。判明しているだけでも6人の死者が出て、漁場は全滅しました。当時漁船の上で空襲を受けて生き残った人は、「米軍機の操縦士の顔が見えるほどの低空飛行だった」と証言を残しています。翌15日には、旧日本軍の重爆撃機「飛龍」が柏原に墜落し、搭乗していた7人のうち6人が命を落としました。
また、7月31日に米軍の潜水艦による艦砲射撃がありました。死者は出なかったものの、王子製紙やその周辺の地域が被害を受けました。
戦時中の苫小牧では、米軍が上陸してきた場合に備えて、山地や海岸に塹壕(敵の攻撃から身を守るために陣地の周りに掘る穴または溝)やトーチカ(コンクリート製の防御陣地)が作られました。そのうちのいくつかは現存しており、苫小牧が地上戦の舞台になる可能性があったことを物語っています。

■苫小牧市遺族会の池野京子(いけのきょうこ)さんの戦争体験-平和への願いを次世代へ
釧路市生まれの池野さんは、4歳のとき満州の奉天(ほうてん)に移住しました。
戦火が激化し、旧ソ連軍の侵攻があったため叔母の住む中国・敦化(とんか)へ疎開することになりました。しかし、終戦を迎えた8月15日以降も旧ソ連軍の侵略は止まらず、疎開先までもが占領されました。その地で起きたのは、筆舌に尽くしがたい悲劇でした。
旧ソ連軍による性的暴行が横行し、絶望した多くの女性たちは、集団自決を選ばざるを得ませんでした。7歳だった池野さんもまた、青酸カリを口にして命を絶とうとしましたが、奇跡的に一命を取り留めた一方、幼い妹は命を落としてしまいました。
その後、池野さんはなんとか日本への引き揚げを果たしますが、心に刻まれた戦争の傷は、今も癒えることはありません。家庭を築き、3人の男の子に恵まれましたが、「また戦争が起きて、この子が出征することになったら…」という恐怖が頭をよぎったといいます。いまだに薬瓶を見ると、あのときの青酸カリを思い出してしまい、薬が飲めないという後遺症も抱えています。
そんな壮絶な体験をした池野さんは、「戦争は人の心を鬼にしてしまう。絶対にあってはならない」と、強い口調で語ります。そして、「相手の言葉を受け止めて話し合えば、争いは避けられる」と、平和の大切さについて身をもって伝えてくれています。池野さんの言葉と体験は、私たちが戦争の愚かさと平和の尊さを知るうえで、かけがえのない教訓です。その声を、これからの世代へと確かにつないでいかなければなりません。

■原爆パネル展and平和ポスターコンテスト応募作品 展示中
とき:8月22日(金)まで
ところ:市役所1階ロビー、12階展望回廊

■平和祈念式典
戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に伝え、市民一人ひとりが平和を守ることの大切さを考えましょう
とき:8月15日(金)
ところ:市民会館大ホール 直接会場へ

◎「黙とう」をお願いします
・広島市原爆投下日…8月6日(水) 8時15分
・長崎市原爆投下日…8月9日(土) 11時2分
・終戦日…8月15日(金) 12時

詳細:総合福祉課
【電話】32-6354