くらし 戦後80年 記憶をつなぎ、平和を紡ぐ

昭和20年8月15日の終戦から80年を迎えます。
加須市では、平成23年3月1日に加須市平和都市宣言を制定し、毎年5月3日に開催する加須市民平和祭を通じて、平和の尊さや核兵器の廃絶などを広く伝えています。
また、平和への願いを乗せて、ジャンボこいのぼりの遊泳を行います。
戦後80年の節目に当たり、当時の様子を記憶とともに振り返りながら、平和への取り組みについて紹介します。

■次世代へ平和を継承するために
暑いあの夏を今でも忘れません。
当時、私は国民学校(今の小学校)3年生。甘いものが希少だったので、祖母が作る麦メシのぼたもちを楽しみに忍町(現行田市)にある母の実家に母、妹、弟と4人で盆の帰省をしていました。
昭和20年8月14日の夜のことです。突然、母に起こされ、驚いて外に飛び出すと、西の空一面が真っ赤に燃えていました。「熊谷空襲」です。家族で西の空をぼうぜんと眺めていると、町中から大勢の人が列をなして逃げてきたことを鮮明に覚えています。
すぐに避難した防空壕の中は真っ暗で、その時の恐怖は今も脳裏に強く焼き付いています。
翌15日の正午、大人たちは、直立不動でラジオから流れる玉音放送を聞き、その後、目頭を押さえていました。口々に「ああ、終わったね」「終わったんだ」と言い、戦争が終わったのだと理解しました。皆、ほっとしたような、無念のような複雑な表情でした。
266人もの死者を出した熊谷空襲は、日本最後の空襲の一つ。もう二度と戦争が起こることがないよう、平和を願って、私はこの目で見たもの、感じた思いを後世に伝えていくために、平成18年から毎年、志多見小学校の社会科の授業の中で話をしています。
その中で、衣食に苦労したことも話しています。食糧管理制度による配給はありましたが、物資が乏しい時代だったため、満足な配給ではありませんでした。白米を食べたことはなく、サツマイモなどが主食でしたが、今のようにおいしいものではありません。
砂糖などの甘いものは手に入らないため、自宅でサトウキビを栽培し、それをかじることが何よりの楽しみでした。
まともな履き物はなく、いつも裸足の生活でした。通学時も裸足だったと話すと、こどもたちは「えーっ!」と驚きます。
遊びも今のように遊具はなく、校庭に直径6m、深さ2mほどのすりばち状に掘られた穴の中を走り回る遊びをしていました。目が回ることが楽しくて夢中で遊んでいましたが、三半規管を鍛えて飛行兵士を育成するための遊びだったようです。
終戦から80年。日本は戦争を経験することなく、平和を守ってきました。これからも平和な時代が続くことを願って、授業の最後には「基本的人権を尊重し、皆、平等である」「自分ファーストでなく、相手も大切にする」と、こどもたちに伝えています。

○古峰孝さん
市内在住。母校である志多見小学校、埼玉県平和資料館、テレビや新聞などのメディアで、熊谷空襲の体験や当時の生活の様子を語り、平和の尊さを伝えている。

■戦争のない平和な世界へ
あの日、東京が燃えていました。
当時、私は国民学校(今の小学校)4年生。住んでいた東京の神田から、樋遣川村(現加須市)の聖徳寺に90人ほどで学童疎開※していました。
昭和20年3月10日の深夜の出来事です。お寺の廊下を誰かが慌ただしく走る音で目が覚め、外を見ると東京方面の空が紅蓮に燃えていました。死者約10万人といわれている「東京大空襲」です。
けれども、その様子を見ても、私は涙を流しませんでした。なぜなら、2月の空襲で既に住んでいた家はなく、家族も空襲前に避難していましたし、何より、当時の教育により「泣いてはいけない」とされていたからです。
疎開中は、お寺で授業を受ける他、燃料用の松ぼっくり拾いや田植えなどをしていました。時折、樋遣川小学校の朝礼に参加させてもらったこともありました。
また、疎開先では、地域の人たちが奉仕で身の回りの面倒を見てくれ、とても良くしてくれました。疎開と聞くと、飢えに苦しんだと思われがちですが、ここでの生活はそこまでではありませんでした。
ただ、生きてもう一度家族と会えるかどうか分からない中で、家族と離れて暮らさなければならなかったことは、とても辛かったです。後で、東京に残っていた家族は、とても危険な目に遭っていたことを知りました。疎開で生き残っても、家族と会えなかった人たちもきっとたくさんいたはずです。
そんな思い入れのある加須市で、私が役に立てることはないかと考え、感謝の意味も込めて樋遣川小学校で戦争の語り部をすることとなりました。
その中で、疎開中の生活や大好きだった叔父が戦死したことなどを話しました。私をかわいがってくれた叔父は、戦地からキャラメルを送ってくれましたが、ソロモン海戦で戦死しました。当然、遺骨は戻ってきません。骨壺に入っていたのは、叔父の名前が書かれた紙きれ1枚だけです。
戦争のような辛い思いは二度としたくありませんし、今のこどもたちにも経験させたくありません。講話の最後には、こどもたちに「あなたたちは私の未来。戦争のない国にする人になってください」と伝えました。
戦争は家族をバラバラにし、生活も激変させてしまいます。悲惨な戦争が二度と起こらないよう、これからも平和の大切さを伝えていきたいと思います。
※都市部のこどもを空襲から守るため、安全な農村部へ一時的に移住させること

○鈴木美代子さん
さいたま市在住。小学4年生の時に樋遣川地区に学童疎開した。当時の経験を樋遣川小学校で講話するなど、平和が続くことを願い、活動している。

■市の平和への取り組み
・平和を考える写真展
・市内図書館の平和に関する図書展示
・小学校での戦争と平和に関する講話
・郷土史料展示室(騎西城)の戦争に関する展示
・市民平和祭での平和作文発表

■平和を願って
80年前、広島と長崎に原爆が投下され、日本は唯一の被爆国となり、8月15日に終戦を迎えました。市では、犠牲者のご冥福と世界の恒久平和を祈り、8月6日・9日・15日に1分間の黙とうをささげています。
戦争を知らない世代が多くなる中、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代につないでいくことが必要です。
私たち一人ひとりが改めて平和の尊さを認識し、互いを尊重し、誰もが安心して暮らせる社会となることを心から願います。