くらし 町長コラム 清のひとこと 大島清 忠次の法要に参加

伊奈町の名前の由来となった伊奈忠次の出身地をご存じですか?出身地は、三河の国小島(こじま)で、現在の愛知県西尾市です。忠次は、小島城主である父忠家(ただいえ)の嫡男(ちゃくなん)(幼名:熊蔵(くまぞう))として、1550年に現在の西尾市に誕生しました。そして、徳川家康とともに関東に1590年に入国し、伊奈町の小室丸の内に屋敷を構え、関東一円の河川改修や新田開発などに尽力したことは皆さまご存じの通りであります。その後、慶長15(1610)年6月13日に61歳で亡くなるまで、我が伊奈町を拠点に20年間にわたり大きな功績を残しました。
この度、忠次の出身地である愛知県西尾市と忠次の菩提寺(ぼだいじ)である西方寺(さいほうじ)から忠次の415回忌の法要開催のご案内をいただきました。私は、忠次が関東に入った以降の活躍については少しずつではありますが顕彰してまいりました。忠次が関東に入る前、いわゆる誕生してから40歳までは、資料も少なく顕彰が進んでいなかったため、忠次が生まれた地を知る絶好のチャンスと考え、ご案内いただいた法要に参加することにしました。
西尾市には名古屋市から名鉄線で三河湾方面に南下し、約1時間ほどで到着しました。市の面積は161平方キロメートル、人口は16万人を数える自然豊かな文化のまち、六万石の城下町として知られています。またバラのまちとしてもよく知られ、昨年伊奈町で開催したばらサミットにも、西尾市長自ら参加していただきました。そんなご縁もあり、西尾市長の案内で忠次ゆかりの寺の安楽寺(あんらくじ)・東禅寺(とうぜんじ)・西方寺をご案内いただき、それぞれの住職からご説明をいただき、関わる位牌も見ることができ大変勉強になりました。小島城主であり祖父の忠基(ただもと)、父である忠家、そして忠次が揃ってこの三河で活躍したと思われる足跡が至る所にあると感じました。
矢作川の水を利用した水田地帯が、はるかかなたまで広がっている光景を見た時に、代々受け継がれてきた伊奈家の技術が、現代にしっかり生きていると私は感銘を受け、また訪れたいと強く思いました。