文化 千住宿開宿四百年記念特集

■暮らしがある、人が行き交う、歴史があるから今がある
寛永元年(1624年)、幕府は江戸と日光を結ぶ日光街道(道中)の整備を開始。その一環として、寛永2年(1625年)に誕生したのが「千住宿(せんじゅじゅく)」です。幕府が、新たに整備した街道沿いに、周辺地域に点在していた集落や宿場機能を集めたことで、千住宿は「大千住(おおせんじゅ)」と呼ばれるほど繁栄していきました。多くの人が暮らし、行き交い、江戸と郊外を結んだ千住宿の歴史的価値は、400年の時を超えて今日のまちに息づいています。
※内容は区調べ。諸説ある場合があります。

◆宿場とは?
江戸時代前期、江戸幕府は江戸と郊外をつなぐ五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)の整備を進めました。各街道には、下記の3つの機能を備えた「宿場」が複数置かれ、それぞれが重要な役割を担っていました。千住宿も、その機能を備えた重◇要な宿場の一つだったのです。

(1)人馬(じんば)の継立(つぎたて)
江戸時代、荷物は宿場から宿場へのリレー方式で運ばれました。荷物の積み替えを行い、次の宿場まで運ぶのが宿場の人々の役割です。「人馬の継立」とは、次の宿場まで人や荷物を運ぶための人足や馬を用意することです。

(2)宿泊施設の用意
宿を通って江戸に出入りする大名たちは「本陣(本紙B面参照)」に、一般の武士や町人は「旅籠(はたご)」と呼ばれるまちの宿泊施設に休泊しました。宿場には、こうした宿泊施設を備えておく必要がありました。

(3)書状の送達
幕府や大名にとって重要な書状も、荷物と同じく、宿から宿へのリレー方式で運ばれました。また、一般の武士や町人の間で交わされる書状も同じ方式で運ばれ、その運送を担ったのは各宿の飛脚問屋で雇われた飛脚たちでした。
[基本的には、書状1通につき通常便は150円程度、速達便は700円程度で運ばれました]

◆千住宿のココがトクベツ
ポイントは、江戸四宿(ししゅく)に数えられていたこと、日光街道の初宿(しょしゅく)だったことです。

(1)江戸四宿
江戸の外縁には、街道に沿って4つの初宿(日光街道千住宿/東海道品川宿/中山道板橋宿/甲州街道内藤新宿)が置かれ、「江戸四宿」と呼ばれました。普通の宿場がその街道沿いの次の宿場への継立しか行わなかったのと異なり、江戸四宿は四宿間での相互のやりとりが可能だったため、より多くの人が盛んに出入りしました。
[日光街道には千住を合わせて23の宿場があり、終点はその名のとおり栃木県日光市でした]

(2)日光街道の初宿
千住宿は、日光街道の最初の宿場だったため、荷物の重量を検査する「貫目改所(かんめあらためしょ)」も設置されました。荷物の大きさや重量が規定通りか否かは、輸送する人や馬に直接影響するほか、日光街道では、千住宿の次の貫目改所は宇都宮宿となり、非常に離れていたため、千住宿での検査がより重要な役割を果たしました。
[日光街道の初宿だったため、東北・北関東・房総の大名のうち70もの家が参勤交代などで千住宿を通りました]

・図(本紙参照)
※嘉永6年(1853年)時点
松前藩:1万石
弘前藩:10万石
久保田藩:20万石
庄内藩:14万石
米沢藩:15万石
会津藩:23万石
白河藩:10万石
盛岡藩:20万石
仙台藩:62万石
中村藩:6万石
二本松藩:10万石
水戸藩:35万石
佐倉藩:11万石

◆モノもヒトも集う千住宿
ポイントは、宿場でありながら市場機能があり、流通面で栄えたことです。また、江戸の文人(ぶんじん)が多く訪れたほか、二重身分の人々が暮らすまちでもありました。

(1)市場機能
隅田川の水運に恵まれてはん栄した千住宿の市場は、江戸郊外の流通拠点となりました。また、享保20年(1735年)には「御用市場」として幕府に認定され、江戸の市場機能の一翼を担いました。宿場でありながら市場機能を持っていた千住宿には多くの人々が集い、天保14年(1843年)には千住宿の人口は、江戸四宿最大を誇りました。
※「はん栄」の「はん」は機種依存文字のため、かなに置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

出典:天保14年(1843年)頃の四宿(宿村大概帳)
・千住宿
家数:2,370軒
人口:9,956人
男:5,005人
女:4,551人
[第2位の品川宿の約1.4倍!]

・品川宿
家数:1,561軒
人口:6,890人
男:3,272人
女:3,618人

・内藤新宿
家数:698軒
人口:2,377人
男:1,172人
女:1,205人

・板橋宿
家数:573軒
人口:2,448人
男:1,053人
女:1,395人

(2)江戸の文人・二重身分の人々
千住宿は、江戸との往来者が多かったほか、江戸から移り住んできた人も多くいました。そうした背景から、江戸の文人が多く訪れ、文芸活動が活発化。文化12年(1815年)に開催された「酒合戦(本紙B面からC面参照)」が、当時の千住宿の文化的環境を象徴しています。
また千住宿の有力な商人は、大名家臣や代官家臣という武士身分を持っていました。これらの二重に身分を持った人々は、商人でありながら帯刀を許され、取り締まりの役割を担っていたことが、ここ10年ほどの研究で明らかになってきました。

千住宿は[交通][流通][文化]の3つの側面で江戸と郊外をつなぎ、繁栄を誇ったのです!

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