- 発行日 :
- 自治体名 : 東京都足立区
- 広報紙名 : あだち広報 2025年9月10日号
本紙B面・C面では、A面で紹介した「交通」「流通」「文化」の3つに着目し、今日の千住のまちに遺る宿場町の面影が感じられるスポットから、400年の軌跡を追います。
※内容は区調べ。諸説ある場合があります。
■千住宿の[交通]
日光街道の初宿、また、江戸(日本橋)から約9キロメートルという好立地に位置した千住宿には、目的も立場も異なる様々な人々が大勢集い、行き交いました。
◆千住宿の重要な役割
▽多くの大名が利用した千住宿本陣跡(千住3丁目33番)
宿場の機能の一つとして重要な本陣の跡が、千住のまちに遺っています。本陣は、宿場にある宿泊施設の中で最も格式が高く、利用者は公家・大名・旗本など身分の高い人々です。
[路地の入口に本陣跡を示す石柱が設置されています]
▽日光街道の初宿ならでは問屋場(といやば)・貫目改所(かんめあらためしょ)跡(千住1丁目4番)
元禄8年(1695年)に人馬の手配をする機関「問屋場」、寛保3年(1743年)に荷物の重量を検査するための機関「貫目改所」が設けられました。
[平成12年(2000年)、区の発掘調査により、現在の東京芸術センター前の広場あたりに問屋場と貫目改所があったことがわかりました]
◆見送りと出迎えの地
江戸と郊外との境界に位置した千住宿は、自然と「見送り・出迎えの地」として定着しました。彼(か)の松尾芭蕉(まつおばしょう)のほか、伊能忠敬(いのうただたか)の測量隊の出発や帰還に際しても、千住宿で見送り・出迎えが行われたのです。
また、日光街道を利用した参勤交代時の大名行列通行の際、江戸に入るための礼儀として隊列を整えていたのも千住宿。この「隊列を整える」という行為は、千住宿が江戸の入り口として機能していたことを示しています。
・矢立初めの地(大橋公園[千住橋戸町千住大橋々台敷])
[松尾芭蕉は600里の旅のはじまりの句をこの地で詠んだといわれています]
◆地形から見る日光街道
江戸と郊外を結ぶ日光街道の重要度は、現在の地形からも読み取ることができます。幕府は、日光街道の水はけをよくするため、周囲よりも高くなるように山なりに土を盛って整備しました。大雨や洪水の際にも日光街道の交通を途絶えさせないためです。
・国道4号側から旧日光街道)をはさんで北千住駅のペデストリアンデッキ方向を撮影(本紙参照)
[盛り上がっているから、道の向こう側にいるトラックが見切れる!]
◆隅田川最初の橋梁(きょうりょう) 千住大橋(千住橋戸町)
文禄3年(1594年)、後の江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により隅田川最初の橋梁「千住大橋」が完成。橋の傍(そば)には徳川将軍家の人々が船で千住を訪れた際に上陸するための御上(おあ)がり場が作られました。また、隅田川最初の橋梁であることから「日光街道の名所」として千住宿を代表する観光名所となり、江戸の庶民が観光に訪れました。
・現在の千住大橋の下に架かる「千住小橋」からは、大橋が木造だったころの木の杭(くい)の位置を示すオレンジ色のブイを見ることができます。この杭は伊達政宗(だてまさむね)が寄進したものだといわれています
・千住大橋が現在のアーチ橋に架け替えられたのは、昭和2年(1927年)のことです
[完成当時の架橋地点は現在より200メートルほど上流だったといわれています]
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