くらし 平塚を貫く大山道(1)

今号では、大山参拝のために人の往来が多かった市内の大山道を、当時の痕跡を今に伝える道標と共に紹介します。

◆広く信仰された霊山「大山」
市内には、江戸時代から昭和時代初期にかけて、人々の往来が盛んだった道があります。平塚からもよく見え、私たちにとっても身近な大山に向かう「大山道」です。大山は古くから山岳信仰の対象でした。信仰者は、大山が見られる平塚周辺の地域だけでなく、関東一帯、福島県南部や新潟県南部、長野県の中信・北信、静岡県西部にまで広がっていました。多くの人々から信仰されていたため、大山に向かう道も、にぎわいました。

◇大山詣(もうで)が大流行
「雨乞(あまご)い、豊作、豊漁、商売繁盛などの祈願のために、山頂で参拝することが庶民の間で一般的となっていました」と説明する市博物館の福田麻友子学芸員(右下写真)。最も基本的な信仰は、雨乞いです。大山は雲に覆われていることが多く、雨が降りやすいため別名「雨降山(あふり)やま」と呼ばれ、農村部を中心に信仰されていました。また、江戸から2・3日ほどで参拝できる距離の近さも、人気を博した理由とされています。
「現在は一年中、頂上に登れますが、江戸時代は旧暦6月27日〜7月17日(現在は7月27日〜8月17日)の夏山開山の時期だけでした。それ以外の期間は、現在の阿夫利神社下社の場所にあった大山寺までしか行けなかったんです」と福田学芸員は話します。ピーク時には、市外を通る別の大山道からの参拝客を含め、夏山開山の20日間で20万人が参拝に訪れたといわれています。大山詣は当時の一大ブームだったのです。

◇田村通大山道(たむらどおりおおやまみち)
大山詣が盛んになると、大山へ続くさまざまな道が大山道として利用されました。市内を通る大山道で人々の往来が多かったうちの一つが、田村通大山道(地図(1)・緑色の線)です。田村通大山道は、主に大山詣を終えて江島弁財天へ向かう人々に使われました(左下囲み)。市内では、大島の土安橋付近から東に進み、横内交差点、田村十字路を通って相模川を渡るための田村の渡し(右下囲み・現在の神川橋付近)までの道筋です。
田村にある旧田村十字路(右下写真)には現在も道標が建っています(下写真)。正面には「右 大山みち」、右面には「左 不じさ王(藤沢) 江のしま 加満くら(鎌倉)ミち」、裏面には「右 大いそ道」と刻まれています。道標に刻まれた向きからして、同十字路の中央付近に、東向きに置かれていたと考えられています。また、八坂神社(田村8-21-30)にも当時の道標が残っていて、はっきりと大山の文字が確認できます(右写真)。正面には「左 大山道」、左面には「右 江之嶋みち(江の島) 左 いやまみち(厚木市の飯山)」とあり、同十字路から130メートルほど北(地図(2)の★印)に建っていたと推察されています。現在の同十字路は、南北に幹道2号四之宮厚木線、東西に県道44号伊勢原藤沢線が通る十字路ですが、当時は丁字路でした(地図(2)・緑色の線)。田村通大山道を通る人々は、神田小学校南側の通りを道標の位置と同十字路で曲がり、田村の渡しへと向かっていきました。

◇伊勢原道(みち)
明治20年に平塚駅が開業してからは、伊勢原道(地図(1)赤色の線)が大山詣の主要な道になりました。伊勢原道は、平塚駅を出て大門通りを北上し、平塚八幡宮(はちまんぐう)から西へ進み追分交差点を北上した後、中原や豊田を通り大山へ向かう道筋です。「昭和2年に小田急線の伊勢原駅が開業するまで、平塚駅は大山の最寄り駅だったんです」と福田学芸員。東京方面から大山詣に来た人々は、平塚駅で下車し、徒歩・人力車・馬車などで大山へ向かいました。夏山開山の期間は地元だけでなく、出稼ぎのため市外からも人力車を引く車しや夫ふ らが集まり、約100台の人力車が人々を迎えていたともいわれています。
日枝神社(中原3-20-16)には、現在の六本交差点(地図(3)の★印)付近に建っていたとされる道標(左写真)が残っています。正面には「庚申(こうしん)供養塔 大山道」、右面には「右 ひらつか 大いそ」、左面には「左 ステーンショ道」と刻まれています。ステーンショとはステーション(平塚駅)のことで、平塚駅が大山へ向かう際の起点となっていたことが分かります。清雲寺(豊田本郷1760)にも、現在の豊田本郷駅バス停付近(地図(4)の★印)に建っていたとされる道標(右写真)があります。正面に「右糟屋 左大山」とあり、南を向いて建っていたと考えられます。道標は主に道路の分岐点に置かれ、人々を目的地へと導いていたのです。

◇道が街をつなぐ
明治29年に発行された『平塚繁昌記(はんじょうき)』には、「数百の旅客出入りたへず」ともあり、市内を通る大山道は、人の往来が盛んだったことが伺えます。福田学芸員は「夏山開山の時期は特に人が多かったので、車夫だけでなく駅前の旅館なども大山詣に来た人々を呼び込んでいたことでしょう。近代平塚の発展に、大山の存在は大きかったと思います」と話します。

田村通大山道も伊勢原道も、おおむね道筋を変えずに今日まで人々の移動を支えています(1面写真)。夏山開山に当たるこの時期に、市内の大山道から、当時の人々が大山詣の道中で見た景色を思い浮かべてみては―。

※写真、地図は本紙をご覧ください。

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