- 発行日 :
- 自治体名 : 神奈川県大和市
- 広報紙名 : 広報やまと 令和7年8月1日号
「未来の子へ 平和な地球を 手渡そう」(大和市戦後80年平和標語)
今年は戦後80年、8月15日は終戦の日です。大和市でも空襲があり、被害が出ました。市内在住のかたの戦争体験などから、改めて戦争の悲惨さを学び、平和について考えてみましょう。
◆13歳の戦争体験記
大和市の語り部 高橋則文さん(92歳)
私の住む深見の周辺には日本一と言われた迎撃戦闘基地、厚木海軍航空隊があり、首都防衛の要として私たちの空を守り、小学校の上空を飛び立って奮戦していた。深見地域は航空機生産工場が連立する工場地帯で、新たな工場の建設現場へ行っては「ここで飛行機を作るんだ」と後先考えず、自慢して騒いでいた。しかし、戦争が激しさを増すと、建設中の工場はたちまち攻撃の標的となった。私は終戦の年に、国民学校高等科(今の中学校)の1年生だった。
1944年11月、我が家の上空にB29の機影を見た。私たちが初めて見た敵機だった。その数日後の夜半に、近くの畑に爆弾が投下された。轟音(ごうおん)とともに、雨戸が爆風で吹き飛ばされた。私たちは何が起きたのか分からず、暗闇の中、崖下の穴で夜を明かした。翌日、数百メートル離れた現場に、火山の噴火口のような爆撃坑があった。爆撃の破壊力を知り、崖下に深い防空壕(ごう)を掘った。
1945年3月の東京大空襲以降、空襲警報の発令が多くなった。この頃、建設中の軍需工場とともに、わずか30戸の集落を米軍の戦闘機が襲った。私は警報と共に黒いP51の機影を見た。「これは近い」と、近くの山林に逃げ込む。P51の機銃掃射は山林の木々をなぎ倒し、弾丸は容赦なく集落に集中した。数か所から火の手が上がり、藁葺(わらぶ)き屋根から上がった火の粉は南風に煽られて黒煙に変わった。私は次兄とともに家の周りを飛び回って火を消し止め、母家を守った。焼け落ちた家の柱も、屋敷境の大木も黒焦げだった。12棟が全焼、3人の同級生が家を失った。
6月になると、「後を頼む」と次兄は兵役に行き、いつ帰るとも分からない。13歳の私は託された田畑を守り、家族を支えていかなければという自負があった。防空頭巾を背負っての畑仕事、女性と子どもが声を掛け合って頑張った。7月からの戦況は更に激しく、搭乗員の顔が分かるほどの低空で、P51が基地周辺を飛び回っていた。
8月15日に終戦となり、空襲はなくなったが、私たちは新たな恐怖に怯(おび)えた。アメリカ軍の先発隊が8月26日に厚木基地に進駐し、30日にはマッカーサーがこの大和に来るという。何をされるか分からない、と姉たちは厚木の七沢に疎開した。残った母と私は途方に暮れたが、小さな弟が私の引くリヤカーの後ろを押し、涙を拭きながら頑張った。厚木基地では戦争は終わらず、反乱が起こっていた。基地の反乱は22日まで続き、翌日に武装解除、厚木海軍航空隊は解散した。
※広報課抜粋、要約。文中の年齢は数え年。全文は下のコードでごらんになれます。
※二次元コードは本紙をご覧ください。
◆戦争の記憶をつなぐために
大和市の語り部が戦争体験を語る動画をYoutube(ユーチューブ)で見ることができます。当時の記憶をもとに語る言葉には、戦争の現実と命の重み、平和への願いが詰まっています。ぜひごらんください。
・樋口豊子さん
大空襲の火の海の中、3歳と2年生の弟と必死で逃げた記憶を語る
・堀見智子さん
学生時代を過ごした広島での原爆投下前後の記憶を語る
・兼田智子さん
台湾少年工との実話を元にした紙芝居『芹沢のほら穴』を上演
・北村明延さん
少年兵に志願し中国に出征した当事者が壮絶な戦時体験を語る
問い合わせ:市役所 国際・市民共生課 国際・市民共生係
【電話】260-5164【FAX】263-2080