くらし 【特集】豊川海軍工廠 被爆80年 語り継がれる平和への思い(1)
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- 自治体名 : 愛知県豊川市
- 広報紙名 : 広報とよかわ 令和7年8月号
昭和20年8月7日の空襲により豊川海軍工廠が壊滅的な被害を受けてから、今年で80年となります。市では、被爆50年の節目となる平成7年に平和都市宣言を制定し、平和を未来へつないでいくための取り組みを行ってきました。今回の特集では、豊川海軍工廠の歴史とともに、平和への思いを語り継ぐための活動を紹介します。戦後80年の節目に、改めて平和について考えてみませんか。
■平和都市宣言
昭和20年8月7日、私たちのまちでは、豊川海軍工廠の被爆によって、動員学徒や女子挺身隊員を含む工員、職員ら2500名以上の尊い命が奪われ、身をもって戦争の悲惨さを体験しました。そして、この被爆と前後して、私たちの国は、世界で最初の核被爆国となりました。
私たちの国だけでなく、歴史上かつてないほど多くの犠牲者を出したこうしたことが、なぜ起きたのか、ともに考え、子孫に語り伝えていかなければなりません。戦争の惨禍を防止し、恒久平和を実現することが、私たち市民の願いだからです。
しかし、現実には、世界各地で武力紛争や戦争が絶え間なく起こり、核戦争の危機は、人類の生存に大きな脅威となっています。
私たち豊川市民は、人権を尊重しあい、平和を愛する心を育て、人類の絶滅につながる核兵器の廃絶を訴え、地球の平和と安全の確保を希求するため、ここに平和都市を宣言します。
平成7年8月7日 豊川市
■1 豊川海軍工廠 戦争の記憶
◆豊川海軍工廠の建設
現在、市役所や警察署などがある豊川市の中心地。その北側には、かつて豊川海軍工廠という巨大な工場がありました。豊川海軍工廠は、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進む昭和14年12月15日に艦船や航空機で使用する機銃、およびその弾丸の生産工場として開庁。その後、戦局の拡大に伴い、双眼鏡をはじめとした光学兵器を製作する部門などが増設され、工廠の敷地はおよそ186ヘクタールにも及び、「東洋一の兵器工場」と例えられるようになりました。
工廠の周囲には、工員寄宿舎や海軍共済病院、工廠神社などの関連施設が次々と建設され、工廠中心の街へと変貌していきました。工廠の発展やそれに伴う人口の増加は、新たな市を発足させる機運を生み、昭和18年6月1日に豊川町・牛久保町・国府町・八幡村の3町1村が合併し、豊川市が誕生しました。
◆働く人々
豊川海軍工廠で働いていた人々は、職員、工員、徴用工員、動員学徒の大きく4つに分けられました。
戦局が激しくなるにつれ、青年男子は続々と戦地へ召集され、国内における労働人口の不足が深刻化していき、昭和18年以降には、未婚女性の女子挺身隊員や学徒の動員が行われるようになります。昭和20年には、わずか12・13歳の国民学校高等科児童までもが動員され、最盛期には5万人以上が豊川海軍工廠で働いていました。大半は徴用工や学徒など強制的に動員された人々であり、彼らが工廠での生産を支える存在となっていきました。
◆昭和20年8月7日
昭和20年に入ると軍需工場や都市を標的とした米軍の本土空襲が本格化。同年5月19日には、豊川海軍工廠に初めて爆弾が落とされ、30余名の方が犠牲となり、空襲の脅威が現実のものとなってきました。
終戦間際の8月7日、豊川海軍工廠は激しい空襲を受けることとなりました。わずか26分間に3256発もの500ポンド爆弾が投下され、2500人以上もの尊い命が犠牲となり、1万人以上の負傷者が発生しました。首のない遺体、引きちぎられた手足、助けを求める人々など、その惨劇の光景は空襲体験者の多くの手記に残されています。この空襲により、工廠の各施設は壊滅的な打撃を受け、焼け跡の片付けもままならぬ8月15日に終戦を迎えました。