- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県庄原市
- 広報紙名 : 広報しょうばら 2025年8月号(No.245)
~残された家族の思い~
多くの尊い命が失われ、多くの人が傷ついた、あの戦争が終わってから80年―
長い年月が過ぎた今でも、その時に負った体や心の傷で苦しんでいる人がいます。そして、家族を亡くした人の悔しさ、悲しさも決して消えることはありません。
しかし、時の流れとともに、当時を知る人の高齢化が進んでいます。
その人たちの「思い」が薄らぐことは決してありませんが、私たちがその「思い」を聞き、引き継いでいくのは、今なのではないでしょうか。
今回は、先の戦争により、大切な家族を失った遺族の「思い」をお聞きしました。
皆さんもこの「思い」を知り、命の尊さ・平和の大切さについて考えてみましょう。
■森永 育正(もりなが いくまさ)さん
昭和14年12月13日生まれ
85歳 本村町
■父の記憶
森永育正さんは、昭和14年に父・正(ただし)さん、母・ハヤ子(こ)さんの長男として生まれました。
家族は、4歳年上の姉との4人で、育正さんが4歳になるまで、呉市で生活していました。
正さんは海軍軍人で、育正さんが生まれた当時は江田島の海軍兵学校に所属していましたが、昭和15年、最期まで運命を共にすることとなる巡洋艦「神通(じんつう)」の乗組員となりました。
「神通」は、昭和16年11月に、寺島水道(長崎県)を出発し、東南アジアに向けて南下しました。「神通」がパラオに入港したころ、太平洋戦争が始まり、正さんも「神通」と共に、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いなどに参加したそうです。
これらの戦いに敗北して以降、戦局は日本にとって、次第に厳しくなっていきます。
そして、正さんが乗り組んだ「神通」は、最後の戦いに参加します。ソロモン諸島で行われた戦いの一つ、昭和18年7月12日に火ぶたが切られたコロンバンガラ島沖夜戦です。
「神通」は、相手方巡洋艦4隻と交戦。探照灯(たんしょうとう)を照射し、照準射撃を行うも、相手の集中砲火を浴び、船体を真っ二つに分断され、乗組員を乗せたまま海底約1千メートルに沈んでいったそうです。
これが、正さんの最期でした。育正さんはその時、わずか3歳でした。
育正さんは「父はほとんど家におったことはないんじゃないか。父に何かをしてもらったという記憶がない。顔も写真でしか知らない。父の膝の温もりを知らないで育った」と話します。
ハヤ子さんも、正さんのことを多くは語らなかったそうです。
■父なき生活
正さんを失い、ハヤ子さんは、育正さんが4歳の時に、2人の子を連れ、庄原の地へと帰ることにしたそうです。
一家は農業で生計を立てていましたが、ハヤ子さんは農作業の経験がなく、見よう見まねで作業をしており、大変な苦労をしていたそうです。
小学生になった育正さんも、田んぼに出て、牛に鋤(すき)や馬鍬(まぐわ)を引かせていたそうですが、最初は牛が言うことを聞いてくれず、情けない思いをしました。
父親を失ったことで、育正さんは学校生活でも悔しい思いをします。
「父親のおらん子はこんぐらいのことしかできん」「親無し子」と言われたり、先生の言うことを聞かず、悪さをしてしまった時にも、先生に「父親がおらんけーそれぐらいのことよ。爺(じい)やん(祖父)を呼んで来い!」と言われたりしたこともあるそうです。
育正さんは「おやじは戦争に行って死んだのに、なんでこんなことを言われんといけんのだろうと思った。家でおふくろに言ったら悲しむけー言われんかった」と当時を振り返ります。
■父を捜しに
育正さんは、自分の年齢が父が戦死した時の年齢を超えたことを契機に、昭和51年2月から3月までの1カ月間、ソロモン諸島で実施された遺骨収集に参加しました。
島の港には、日本軍が残していった大砲が並び、トーチカ(敵からの攻撃を防ぐために設置された頑丈な小屋や構造物)の中の壁面には、たくさんの言葉が残っていました。
その多くが「万歳」ではなく、「お母さん…」など、家族へ向けた言葉ばかりであったそうです。
「本当はあるのだろうけど、『万歳』の書き残しは見つけられなかった。兵隊は見知らぬ地で命を懸けて戦っている。怖いだろうし、これが本当だなと思う」と育正さんは話します。
また、アメリカ兵の墓地は山一面に整備され、地元の住民が毎日掃除をしてきれいに管理されていたそうですが、日本兵については「ジャングルを歩いていたらつまずいたので、足元を見てみると、頭だった。そこを掘ってみると何層にもなって遺体が出てきた」と、遺体は墓地に埋葬されておらず、ジャングルに放置されたままになっていたそうです。
遺骨収集を終え、帰宅した育正さんは「あれは墓場じゃのーて、捨て場じゃった」と涙を流していたと、育正さんの妻・真由美(まゆみ)さんは話します。
■コロンバンガラ島から
正さんは、日本から遠く離れた、ソロモン諸島コロンバンガラ島沖の海底約1千メートルに眠っています。ハヤ子さんは、生前、遺骨が帰ってくることはありえないと思っていたようで、墓参りにいくと「お父さんは海の底におる。ここは空っぽ」とつぶやいていたそうです。
ハヤ子さんが亡くなり、三回忌を迎えるころ、奇跡が起こります。育正さんは、ソロモン諸島方面の戦没者帰還事業を行う団体へ、現地での正さんの慰霊を託しましたが、ハヤ子さんの三回忌の前日、その団体から、正さんの眠る地、コロンバンガラ島の砂と小石が、育正さんのもとへ届けられました。
育正さんは感無量。「おやじ、やっと帰ってきてくれたかー」と、受け取った手は震えていたそうです。
その一握りの砂と小石は、家族の写真と共に、ハヤ子さんの三回忌の日に森永家の墓に埋葬され、ハヤ子さんと一緒に眠っています。
■私たちができること
今回の取材の中で、育正さんは「戦争というのはいけん。戦争は悲しみしか残らない。寂しい思いを随分してきた。争いごとはいけん。一家だんらんのほうがええ」と、平和への「思い」を語ってくださいました。
戦争により生み出されるものがあるのでしょうか。あったにせよ、人の命と引き換えにして生み出されたものに、どれだけの価値があるのでしょうか。
戦後80年の節目にあたり、私たちは平和の尊さとその継続の重要性を改めて胸に刻む必要があります。
戦争は、無条件に人の命を奪い、傷つけ、憎しみ、悲しみを残します。平和は決して当たり前ではなく、守り育てるべき宝物なのではないでしょうか。
今回の取材で聞かせていただいた「思い」を平和への思いとして、未来へと伝えることで、次世代が平和な社会を築く礎となることを願います。
問合せ:総務課総務法制係
【電話】0824-73-1123