くらし 市長独言No. 101…戦後80年の青い夏空

種子島開発総合センター鉄砲館で戦後80年特別企画展「つながる記憶、未来へ」が9月28日まで開催中です。今年、戦争に関する証言や資料の提供を市民に呼びかけ、寄せられた16人からの情報を中心に展示しています。
同展は、日中戦争以降の種子島出身の兵士に関する資料と、戦時中の種子島の暮らしに関する証言を中心に構成。戦地から家族へ近況を知らせる手紙では従軍先の地名が、ある時期から伏せ字に変わり、戦況の深刻化に伴う検閲がうかがえます。沖縄戦の日本軍敗退後は種子島でも空襲が激しくなり、郵便局長による「空襲日誌」には職場での緊張感があふれています。
7月末からの会期中、8月2日には市民会館ホールで特別講演があり、知覧特攻平和会館(南九州市)学芸員の羽場恵理子さんが西之表出身の陸軍特別攻撃隊員、上成義徳曹長の遺書などを紹介しました。知覧では1941(昭和16)年、大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)の分教所が開校した後、45年に特攻基地となりました。同館は、沖縄戦の特攻作戦で戦死した隊員1036人の写真や遺品を収蔵、展示しています。
上西出身の上成少尉(戦死後に昇進)は1937年に入営し45年3月、福島県で編成された第八十振武隊に配属。4月22日に出撃して戦死しました。25歳。4月4日付で両親に宛てた遺書は「郷土南西諸島ニ散ル又望ム所ナリ郷土又戦場ト化ス勝ツヲ信ジ健斗ヲ祈ル」と悲壮な思いを伝えます。講演当日の市民会館には種子島でも島民の「集団自決」寸前だったとする証言記録も紹介していました。
初盆の家も少なくなかった8月の13日、西之表港に寄港した三井オーシャンフジ(3万2477トン)の船上から緑濃い島を眺望しました。工事作業船も停泊する頭上に青空が広がります。亡き人の家族、故郷への思いをしのびながら、島の将来に思いをはせました。