- 発行日 :
- 自治体名 : 岩手県一関市
- 広報紙名 : 広報いちのせき「i-Style」 令和7年8月号
終戦から今年で80年
まちは変わり続け
戦争の体験者が減っていく
だからこそ考えませんか
今を生きる私たちが忘れないように
この夏、改めて「平和」を
■一関と戦争
○太平洋戦争とは
日中戦争が長期化していた昭和15年。日本は石油資源などを求めて東南アジアへ武力による南進を開始しました。これに対し、アメリカは経済制裁を発動。日本はアメリカとの戦争に踏み切り、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争に突入しました。日本は東南アジアや南太平洋に進出しますが、昭和17年6月のミッドウェー海戦に敗れ戦況が悪化します。昭和19年にサイパン島が陥落し、日本本土への空襲が本格化。昭和20年8月には広島と長崎に原子爆弾が投下されました。その後、日本は無条件降伏し、同年8月15日に玉音放送で終戦が国民に伝えられました。
○一関からは2万人が出兵
先の戦争では、若者を含めた多くの成人男性が召集され、戦地に送られました。この地域も例外ではなく、2万4千人以上が出兵し、戦没者は4606人。未来のある若者たち、幼いこどもを持つ若い父親の命が奪われました。遺骨さえ古里に戻ることがかなわず、今も異郷の地に眠っている人もいます。
人々の暮らしにも戦争が影を落としました。男性が戦地へ向かう中、残った女性や高齢者、こどもたちは苦しい生活を強いられました。労働力不足を補うため、学生・生徒は軍需工場や食料増産のための畑仕事などに動員されました。
○この地域でも空襲があった
昭和20年8月9日、旧国鉄一ノ関駅の職員が、米軍機が落とした空襲予告のビラを拾いました。「翌日10日に一関を空襲する。避難せよ」。10日、予告どおりに一関の上空に米軍機が襲来し、一ノ関駅目がけて爆弾を投下。同日には、山目国民学校や花泉駅でも爆弾投下や機銃掃射による攻撃を受けました。犠牲者は10代の若者が中心の35人で、うち25人は一ノ関駅の防空壕(ごう)に避難した人たちでした。
また、前日には気仙沼空襲後に飛来した米軍機による機銃掃射により、旧室根村でも1人が亡くなっています。
80年前、ここにも数々の悲しみ、苦しみがありました。戦争体験者が減り、体験者の子も高齢化していく中、私たち一人一人が戦争に目を向け、記憶の風化を止めなければなりません。
参考文献:岩手県「慰霊の旅」、金野清治郎「証言・一関空襲」、加藤昭雄「あなたの町で戦争があった」、中央公論新社「昭和時代 戦前・戦中期」、伊藤学「あなたは一関空襲を知っていますか-一関市民として知っておきたい戦争の姿-」
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。