- 発行日 :
- 自治体名 : 岩手県一関市
- 広報紙名 : 広報いちのせき「i-Style」 令和7年8月号
■戦没者遺族の思い
戦争で家族を失い戦後を生きてきた2人に聞く戦争とこれから
○平和を守っていくために命の大切さをしっかり伝えてほしい
一関遺族連絡協議会長 槻山勝宏(かつひろ)さん(81)一関
弥栄小学校長を最後に退職後、一関空襲の経験者だった教員の先輩から「今度は君がやってくれ」と託され、市内の小学校で戦争の話をしてきました。「畳1枚のスペースに6人が背中合わせで座った」「それが36日続く」「すぐ殴られる」…。これは、フィリピンへ輸送船で渡った兵士たちの過酷な状況です。こどもたちは「お風呂に入れないなんてかわいそう」「1日2食なんてつらい」「横になれないのは大変」と、自分たちの普段の生活と比べながら真剣に聞いてくれました。例えば「抑止力」という言葉から、こどもたちが戦争を想像できるでしょうか。戦争を語り継ぐことは、絶対に必要だと感じています。
父は昭和19年6月に山形県の部隊に召集され、翌年3月にフィリピン・ルソン島で戦死しました。父が出征したとき私は生後4カ月。こどもたちに伝えた輸送船の話は、父が所属した「もや部隊」の生還者に聞いたものです。生還者と遺族が結成した「もや・いふ部隊友の会」は毎年山形市の立石寺で慰霊祭、ほぼ隔年でフィリピンへの慰霊巡拝をしており、私も何度も参加しました。
ある年のフィリピンへの慰霊で、部隊の生還者とご一緒しました。その人は「私はもう二度と行けないだろうから」と現地で当時のことを話してくれ、「槻山君のお父さんは、あの山だよ」と父の最期の地を教えてくれたのです。大勢がいっぺんに命を落としたという場所でしたから、遺族たちが山に向かって「お父さーん」「お父さーん」と叫ぶ声がやみませんでした。私も追悼の言葉を用意していたのに「お父さん」と言った後、声が出なかった。「再びこの地に来ます、だから許してください」と、追悼文を読めなかったことをわびるのが精いっぱいでした。
平和を守るために必要なのは、家庭や学校でこどもたちに命の大切さをしっかり教えること。遺族は高齢化しています。語り継いでいくために、2世代、3世代で慰霊祭や追悼式に参列してほしいと願っています。
○父に代わり育ててくれた地域の人たちへの感謝を忘れません
市遺族連合会長 佐藤 守(まもる)さん(82)千厩
父は昭和16年に出征し、東北地方の若者で編成する旧日本陸軍歩兵第222連隊に編入、太平洋戦争激戦地の一つであった西部ニューギニアのビアク島で昭和20年6月2日に没しました。25歳の若さです。私が生まれる前に出征したため、父の記憶は全くありません。今、当時の写真を見たり周りから人柄を聞かされたりすると、自分に似ているところもあってやはり親子なのだと実感させられます。
戦争が終わってからの生活は苦労、苦労の連続でした。幼い頃には体が弱かったこともあって、悔しい思いをしたこともたくさんあります。そんな苦しい環境でも、当時周囲には助けてくれる大人たちがいました。父の代わりとなって世話をしてくれた皆さんを「親父」と慕って育ちました。地域の人たちに何か恩返しがしたくて、お年寄りが楽に歩けるようにと大工の腕を生かしてつえを手作りし、20年間社会福祉協議会を通じて贈り、利用していただいています。実際に使っている人を見かけるとうれしく、励みになります。
平成28年9月、慰霊のために父の最期の地に赴きました。ジャカルタを起点に、戦地となった場所を全国の戦没者遺児の皆さんと共に巡拝。現地は自然豊かで穏やかな印象でしたが、父たちがこんな場所で十分な飲み食いもできず、血みどろになって戦ったのだと思うと、今の私たちの生活は多くの犠牲の上にあるのだと考えさせられました。父が眠るビアク島の慰霊碑前では追悼文を読みました。万感の思いがこみ上げ、この体験を次代につないでいくことが私に与えられた使命なのだと、改めて誓う機会になりました。
現在も世界で繰り返される戦争の惨状を見ると、悲しく、涙が止まりません。いかに残された家族が苦労するか。そのむごさを分かってほしい。願うのは世界平和。遺族会として、次世代に何を伝え、どう感じてもらい、行動してもらうか。今を生きる私たちの務めだと思い、常に考える日々です。