文化 特集 東山道駅路跡の発掘~古代の高速道路を探して~(1)

※図など詳細は、本紙またはPDF版をご覧ください。

■今と昔の高速道路
寒い寒い冬を越えて、いよいよ春がやってきました。行楽シーズンの到来です。卒業旅行や春休みを利用した家族旅行、あるいは今年初めてのキャンプ、色々な旅行があると思いますが、どんな旅行でも役に立つのが高速道路。現在は総延長約14,000kmにも及び、47の都道府県庁所在地全てと接続している日本が世界に誇る道路ですが、初めて国土全体で作られた高速道路計画では、路線延長はこの約半分である7,600kmでした。
実はこれと同規模で、今から1000年以上昔にも全国を結んだ道路がありました。都(奈良・京都)と全国を放射状に繋いだ「駅路(えきろ)」です。当時の政府は全国を7つの地域(道)と都付近に分け(図1)、さらにその下に現在の都道府県にあたる「国」を置きました。この「国」の中心地を「国府(こくふ)」と呼んでいますが、全国の国府をつなぐ総延長約6,300kmにも及ぶ壮大な駅路ネットワークが築かれていたのです。

■古代の高速道路「駅路」
駅路は各道毎に設けられました。栃木県は当時「下野国(しもつけのくに)」と呼ばれて東山道に属していたため、この地を通っていた駅路のことを「東山道駅路(とうさんどうえきろ)」と呼んでいます。駅路には多くの人・モノ・情報が行き交いました。これらの円滑なやり取りのため、それぞれの駅路には約16km毎にサービスエリアにあたる「駅家(うまや)」が置かれ、所定の数の馬が置かれました。この駅家の運営のため、近隣には運営費用を賄うための土地である「駅田(えきでん)」を与えられた集落「駅戸(えきこ)」があり、代表者である「駅長(えきちょう)」を中心に、馬の管理や使者である「駅使(えきし)」の応対に従事していました。
なお、こうした施設・設備は誰もが自由に使えるものではなく、基本的には重要な公務にあたっている者であることを示す「駅鈴(えきれい)」を有する者が使えるようになっていました。駅鈴は、盗んだ者は死罪の次に重い刑罰に処されるほど重要な物でした。こうしたハード面・ソフト面を合わせた仕組み全体を指して「駅制(えきせい)」と呼んでいます。
当時の政府は「律令(りつりょう)」と呼ばれた法令によって中央が地方を一元的に統治することを目指した中央集権国家であり、一般に「律令国家(りつりょうこっか)」と呼ばれていますが、駅制は律令国家が全国から情報を収集し、指示を行きわたらせるために細部までこだわった制度で、律令国家としての産声を上げた7世紀後半から崩壊を迎える11世紀頃まで運用されていたようです。

■「駅路」、東国を貫く
東山道駅路は、奈良・京都から不破関(ふわのせき)(岐阜県関ケ原町)で畿内(きない)を出ると、おおよそ現在の中央自動車道と同様の経路で信濃国(しなののくに)(長野県)を通過し、碓氷関(うすいのせき)(群馬県安中市)を越えて上野国(こうずけのくに)(群馬県)に至ります。関東平野に出た東山道駅路は直線的に東進し、下野国(栃木県)には足利市周辺から入ったようです。足利市からはなおも直線的に東進し、三毳山(みかもやま)(栃木市/佐野市)付近でやや進路を北に振り、当時の県庁所在地である下野国府(しもつけこくふ)(栃木市)を経由して進路をさらに北に振ります。現在の宇都宮市から高根沢町へと進んだ駅路は、さくら市と那須烏山市の市境付近で実際に発掘されています。また、喜連川丘陵を抜けた駅路は、那珂川と箒川の合流点にほど近い那須郡の役所跡である「那須官衙遺跡(なすかんがいせき)」でも発掘されています。那須郡に到達した東山道駅路は最終的に白河関(しらかわのせき)(福島県白河市)で陸奥国(むつのくに)に抜けるわけですが、大田原市内では駅路が具体的にどの辺りを通過していたのか、いくつかの候補はありましたが長い間謎に包まれていました。(図2)
【図1】地理院タイル(【URL】https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)より傾斜量図を下図に作成
【図2】地理院タイル(同上)より傾斜量図を下図に須田勉・高橋一夫2023編『渡来・帰化・県郡と古代日本』を参考に作成

■発掘調査をはじめる
この東山道駅路がどこを通っていたのか、この地域に設けられた「磐上駅家(いわかみうまや)」がどこにあったのか、またその周辺にはどのような施設や集落が展開していたのか。こうしたことを確認してその価値を発信し、次の世代に継承して魅力ある地域づくりを進めるため、本市では令和元年度より「東山道駅路跡及び関連遺跡発掘調査事業」として5年を一区切りとする発掘調査事業を実施しています。今年度は第2期事業の1年目、計6年目にあたります。
調査をはじめるにあたっては、那珂川と丘陵に挟まれる形で東西幅600~700m/南北約3kmにもわたって平坦な地形が細長く続く、湯津上から佐良土に至る地域を対象としました。また、この地域は国宝「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)」や国史跡である上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)・下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)、これに寄り添う上侍塚北古墳・侍塚古墳群が密集するなど、古来より当市でも歴史的資産の集積が密であり、地形的にも直進的な設計を志向する古代道路のルートを推定しやすいのでは、との見込みによるものです。(図3)