くらし 峰山駅、京丹後大宮駅 鉄道開業100周年(2)

■峰山駅、京丹後大宮駅100年のあゆみ
▽1924
日本国有鉄道(国鉄)峰山線
西舞鶴~宮津間営業開始

▽1925
峰山線宮津-峰山間が開通峰山駅・口大野駅が開業し、式典や祭礼で開通を祝った

▽1932
同峰豊線峰山-豊岡間が全線完成、舞鶴から全線が開通し「宮津線」に線名変更

▽1963
口大野駅を「丹後大宮駅」に改称

▽1980
「日本国有鉄道経営再建推進法」が施行

▽1982
「宮福鉄道株式会社」設立

▽1987
日本国有鉄道分割民営化に伴い「西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)」に移管

▽1989
宮福鉄道株式会社から「北近畿タンゴ鉄道株式会社(KTR)」に商号変更

▽1990
JR西日本からKTRに旧国鉄宮津線を移管、峰山駅と丹後大宮駅を改装

▽2015
上下分離方式により運行部門をWILLER TRAINS株式会社に移管「京都丹後鉄道」が運行開始、丹後大宮駅を「京丹後大宮駅」に改称

▽2025
峰山駅、京丹後大宮駅が開業100周年を迎える

■今こそ、100年前の想いに触れる
それぞれの時代ごとに観光や産業、そして地域住民を支えてきた鉄道。峰山伝統芸能振興会には、そんな鉄道の開通当時、喜びに浸る人々の様子が記録映像として保存されています。駅の開業を祝う式典や祭礼が行われ、丹後ちりめんで栄えたことを感じさせる高貴な装いの親方衆や琴平新地の芸妓さんの踊り、神輿渡御や山車屋台巡業など、当時の生活や文化、鉄道開通の悲願が叶った丹後の人々の表情や想いが伝わってくる映像となっています。

■PICK UP特集インタビュー
宮津線開通100周年と峰山駅・京丹後大宮駅開業100周年を記念して、京丹後出身の元鉄道マンに当時のお話を聞きました。

▼受け継がれていくたんごべえの鉄道魂
堀井恭司(ほりいきょうじ)さん(79)
1946(昭和21)年、峰山町荒山に生まれ、65年に日本国有鉄道(国鉄)入社。運転士そして指導者として後進の指導、国鉄分割民営化の際には、北近畿タンゴ鉄道開業準備室(出向)にて規定・運行ダイヤ設定など民営化への円滑移行の指揮に尽力し、半世紀にわたり地元鉄道を支えた立役者の一人。

▽時代を彩った車両たち
人の役に立ちたい。その思いで国鉄に入社しました。運転士としてD51型蒸気機関車、気動車と時代とともに変わっていく様々な車両を運転しました。その中でも1990(平成2)年、当時最新鋭であった特急タンゴ・エクスプローラーは、今でも記憶に新しいです。今までにない第三次曲線のデザインに空が見える天窓、光ファイバーで繋がりパソコンを搭載している唯一無二の車両でした。京都、大阪へも乗り入れ、まさに「走る広告塔」として大いに注目されました。当時は珍しいワンマン運行の車両だった事もあり、丹後管内でアクシデントが起こった際は、沿線のたんごべえ(=丹後出身者を表した方言)の鉄道マンで連絡を取り合い、助け合っていたのを思い出します。

▽鉄道マンとしての教え
鉄道で一番大切なことは「したらダメなことは、絶対にダメ」ということ。ルール厳守と安全管理がもっとも重要で、危ないと思ったら列車を止める。止めることを躊躇しない「確固たる意志」が大切です。これは自分が運転士であった頃はもちろん、後輩運転士の育成に携わるようになってからも特に厳しく伝えました。当時は「鬼の教官」だなんて言われて、雑誌に取り上げられたり(笑)。信楽高原鐵道(しがらきこうげんてつどう)(滋賀県)や北条鉄道(兵庫県)、智頭(ちず)急行(鳥取県)など、全国の鉄道で教え子たちが活躍しているのが、私の誇りであり一番の思い出です。

▽これから先の鉄道へ
少子高齢化で人の移動手段は変化しました。鉄道利用のメイン層である高校生も減少し、京都縦貫道が繋がり、車での旅行者が増えているのが現状です。利用者の減少は現実、しかし目先の利益に惑わされず、公共交通の根幹である安全性は絶対に怠らないでほしい。京丹後市のような沿線自治体の繁栄のためには、鉄道は不可欠です。新たなスター列車の導入などの企画を期待したいです。