- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県安芸高田市
- 広報紙名 : 広報あきたかた 令和7年8月号
■安芸高田歴史紀行(あきたかたれきしきこう)特別拡大版
歴史民俗博物館副館長 秋本 哲治
◇1945年5月5日 船佐空爆
5:40、米軍機「B29」1機が飛来し、旧船佐村(現高宮町)字船木~字所木対岸の旧発電所に至る1kmに及ぶ江の川両岸に3発ずつ、約200~300mの間隔で爆弾を投下しました。そのうちの1発が現高宮町船木の個人宅前庭に落ち、母屋・納屋を焼失。当日里帰りをしていた長女・母子を含む家族7人が犠牲となり、この地が県北唯一の被爆地となりました。
旧三江線船佐駅(当時は未完成)のホームより線路を挟んだ真向かいの敷地に現在は説明板のみが残ります。
◇1945年6月25日~ 根野飛行場の建設
5月、高田郡根野村国安(現八千代町下根)に特攻隊の飛行場建設の指令が下りました。これは海軍特攻隊の飛行場で、正式名称は「海軍航空隊可部基地」。第1期工事は6月25日から7月10日までで、建設には呉海軍設営隊の他、郡内や周辺の住民・学徒動員ら延べ9万人が動員されました。20日足らずの突貫工事で、長さ600m幅40mの滑走路と格納庫が作られ、第1期完了直後に特攻機25機(木製の練習機)と約90人の隊員が到着し、明顕寺(八千代町佐々井)を本部としました。同時に滑走路をさらに600m延ばす第2期工事が始まり、延べ6万人余りが動員されました。民家数軒が立ち退きとなり、計1,200mの滑走路がほぼ完成した頃に終戦を迎え、実際に特攻機が出撃することはありませんでした。
◇1945年8月6日 原子爆弾投下
8:15、米軍機により人類史上初めて原子爆弾が広島に投下され、14万人ともいわれる人々が亡くなり、3千人以上の高田郡民も被爆されています。
当日、高田郡内各地でせん光と轟音の後、きのこ雲が目撃され、吉田では建設中の根野飛行場に爆弾が落ちたと思われたようです。その後、芸備線(投下直後も運行)やトラックで被爆者が高田郡内に運ばれ、吉田病院では収容しきれず、翌日には吉田小学校も臨時収容所となりました。しかし死者が激増し、青山・会下山に加え郡山貴船神社でも火葬されています。また、芸備線沿線の向原・旧甲立小学校でも被爆者が次々と収容され、多数が亡くなりました。高田郡内の人々は、収容者の看護や広島への救援活動に奔走しました。
◇1945年8月9日~ 満州高田開拓団の悲劇
第二次世界大戦中、日本の人口増加や食糧問題の解決などを目的として、満州(現在の中国東北部)への移住が推進されました。満州高田開拓団は丹比村を中心として高田郡内から団員を募集し、1944(昭和19)年春から翌年6月までに計295人が入植しました。
8月9日、突如ソ連軍が満州に侵攻し満州の状況は一変しました。ソ連軍の略奪や暴行に加え、現地住民の蜂起により開拓団は避難や逃避行を強いられました。食糧不足や寒さ、病気、さらには集団自決という悲劇も起こり、最終的に団員の3分の2に当たる191人が犠牲となりました。帰国の道のりも困難を極め、中国に取り残されて残留孤児となった子どももいました。現在、郡山公園の一角にある「満洲高田開拓団殉難之碑」が開拓団の苦難の歴史を伝えています。
●「百万一心」と戦争
本市のキャッチフレーズにも使われ、毛利元就の伝説として知られる「百万一心」は戦争とも深い関係があります。
満州事変の起こった1931(昭和6)年、毛利元就墓所前に百万一心碑が建立されました。1932年には吉田小学校にも建立され、同小学校では1936年より百万一心劇が上演されています。その後、地元として元就の顕彰のみならず、国難にあたり「百万一心」の精神を国内に啓発する動きが盛んになっていきます。1943(昭和18)年には、高田郡民の寄附により陸海軍に献納された2機の飛行機は「百万一心号」と命名されました。このように毛利元就の逸話は、当時の世相と相まって戦争に利用されたといえます。