- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県安芸高田市
- 広報紙名 : 広報あきたかた 令和7年8月号
■重藤さんが経験した戦争
甲田町で生まれ育ち、三次中学校在学中に軍需工場に動員された重藤剛介さん(現在96歳)に、当時の体験を語っていただきました。
◇16歳で経験した飢え、空襲、そして8月6日
私は1930年3月3日生まれ。物心ついたときには、もう戦争が始まっていました。五・一五事件(1932年)、日中戦争(1937年)、そして1941年の小学校6年生のときに太平洋戦争が勃発。甘いものなど食べた記憶はなく、大麦のカスを口にしたりして飢えをしのぎました。うちは郵便局でラジオがあったので、よく近所の人が集まり、スピーカーに耳をすませてニュースを聞いていたものです。
1944年、三次中学3年の夏、私は学徒動員で呉の軍需工場に送り込まれました。
飛行機の部品を作る仕事で、日勤と夜勤を一週間おきにこなし、八畳の遮光幕の部屋に5、6人で寝泊まりしました。ノミやシラミに悩まされ、空襲の恐怖におびえながらの毎日。「日本は負けない」と信じていましたが、連日の空襲で「不利な状況にあるのではないか」と思うようになりました。
1945年3月19日、四国沖に停泊していた4隻の空母から214機の艦載機が飛来し、初の艦載機空襲。空襲警報が鳴ったときには、すでに大量の戦闘機が頭上に現れており、その光景は今でも目に焼き付いて離れません。5月5日には、B29の空襲で工場は跡形もなく吹き飛ばされ、朝から昼まで煙で辺り一面が真っ暗でした。
それからしばらくして迎えた8月6日、朝の休憩中に見上げた空は雲一つない快晴。そのとき、西の空から、見たこともないような巨大な雲が流れてきたのです。敵機らしき音もせず、どこか遠くが爆撃されたのだろうと思いました。その夜、食事中に「広島がやられた」と聞かされ、町は壊滅状態だと。発電所の故障だとか、火薬庫の爆発だとか、原因についてさまざまな憶測が飛び交いました。それが原子爆弾によるものだと知ったのは、ずっと後になってからのことです。
◇解隊、帰郷。焼け野原の広島を歩いて
そして8月15日、「正午に重大な放送がある」と知らされ、私たちは食堂に集まりました。ラジオから流れてきたのは、ゆっくりとした語り口の声。雑音もあって内容ははっきり聞き取れませんでしたが、周りの学生たちは突然泣き出しました。「日本は負けた。陛下が、戦争は終わったとおっしゃった」と。みんな悔しさで涙を流し、虚脱状態になりましたが、心のどこかでは「これで死なずに家に帰れる」と、ほっとする気持ちもあったのです。その日を境に、空襲警報は一切鳴らなくなりました。
8月17日、解隊式のあと、毛のないような毛布1枚を受け取り、海田市駅まで列車で行き、そこから広島駅まで歩きました。そこで見た光景に驚きました。広島の町には建物が残っておらず、広島駅の北側には陸軍の演習場「東練兵場」がありましたが、板も窓も何もなかったのです。
いつ列車が来るのかも分からない状況の中、臨時列車だけは動いていました。芸備線も混雑していて、乗れないかと思いましたが、車両が2両増結されたおかげで乗ることができました。三次中学の3・4年生をはじめ、高田中学、三次高等女学校、向原高等女学校の生徒たちが一斉に帰郷することになっていて、車内は超満員でした。
夕方、吉田口駅に着いたとき、両親が迎えてくれました。私はシラミだらけで、すぐに風呂をたいてもらい、服もたいてもらいました。広島の福屋百貨店で働いていた姉は手にやけどを負い、寝ていましたが、生きていたことが何よりの救いでした。
◇占領下で混乱したまま動き出した社会
終戦からしばらくの間は、本当に混乱の時代でした。うちには米があったので、9月から10月にかけては、それを広島に持って行って闇市で売り、生計を立てていました。
当時は朝鮮から来た人たちが地域を仕切っていたり、GHQの占領下に置かれていたりと、世の中が落ち着くには時間がかかりました。ようやく落ち着きを取り戻したのは、サンフランシスコ講和条約が結ばれたころ(1951年)からだったと思います。
学校が再開したのは11月。それまで病院として使われていたのです。教科書もない中、突然、微分積分や因数分解、連立方程式を習いました。100年近い学校の歴史の中でも、私たちほど「勉強できること」を心から喜んだ生徒はいなかったと思います。
◇敗戦から学んだ「考えること」の大切さ
戦争に負けて、私は日本という国が「考える力」を持ち得ていなかったのだと痛感し、統計や科学的な思考に基づく教育が大切だと気付きました。私たちの世代は、「武力で戦う」のではなく、「知恵で戦う」ことをようやく学び始めたのだと思います。
戦争を二度と起こさないためには、もっと多くの人が賢くならなければならない。戦争は、感情に流されたときに起こるものです。もし物事を冷静に、数字や事実に基づいて考えていれば、戦争という選択肢がいかに愚かであるかはすぐに分かるはずなのです。例えば、当時の日本の資源状況を見れば明らかです。石油の埋蔵量はアメリカの500分の1、鉄鉱石は400分の1しかありませんでした。戦時中も鉄が不足し、ありとあらゆる金属が供出されていきました。そんな状態で、戦争に勝てるはずがなかったのです。数字を見て、科学的に物事を判断すれば、それは子どもでも分かることです。
ところが今の時代は、SNSなどを通じて、感情が簡単にあおられる世の中になっています。だからこそ、なおさら考える力が必要です。情報をうのみにせず、物事の背景や根拠を探り、自分の頭で判断していかなければなりません。勉強して、知識を身に付けて、冷静に物事を見る目を持つ。知恵で勝負をする社会をつくらなければ、また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれません。若い人たちには、どうか自分の頭でしっかり考えて、自分の人生を切り開いていってほしい。誰かに流されるのではなく、自分で判断する力を育ててほしいのです。
私たちは、あの夏に全てを失いました。だからこそ、あの夏を決して繰り返してはいけない。そのために必要なのは、勉強です。学び、考え、知恵で道を切り開いてください。