- 発行日 :
- 自治体名 : 神奈川県小田原市
- 広報紙名 : 広報小田原 令和7年7月号 第1275号
終戦から80年がたつ今、私たちには、戦争の記憶から平和の大切さを学び、未来へ伝える責任があります。戦時中、小田原も空襲による被害を受け、多くの人々が苦難に直面しました。
「戦時下の小田原地方を記録する会」に所属する井上弘さんは、地域の戦争体験を掘り起こし、後世へ伝える活動を続けています。小田原で何があったのか、当時の状況について聞きました。
◆井上弘さんが語る 80年前の本土決戦と小田原空襲
《迫る本土決戦に向けて》
昭和20年4月初め、小田原地方に日本陸軍部隊が約1万人配置され、本土決戦のための陣地を造り始めました。本土決戦とは、日本本土に上陸してくる米国軍を迎え撃つことで、決号(けつごう)作戦とも呼ばれました。日本軍は、米国軍の上陸地点として千葉県の九十九里浜と相模湾を想定し、小田原地方には第84師団の歩兵第199連隊と歩兵第200連隊などが配置されました。部隊は国民学校(現在の小学校)などを宿舎とし、荻窪や久野などの西部丘陵地、国府津や下曽我などの東部丘陵地に多くの陣地を構築しました。今でもこの陣地跡がいくつか残っています。
日本政府は本土決戦に備えて、国民学校初等科修了以上で、65歳以下の男子と45歳以下の女子で構成された国民義勇隊を創設し、日本軍に協力させた他、義勇兵役法を公布し、国民義勇隊を国民義勇戦闘隊の武装組織に移行させ、市民を本土決戦部隊と共に戦わせるようにしました。もし本土決戦が行われれば、多くの市民が日本軍部隊と共に米国軍と戦うことになり、まさに本市が戦場になっていたかもしれません。
《計画にない空襲》
米国軍は、事前に上空からその都市を撮影した「石版集成図」と呼ばれる航空写真を作成し、それに基づいて空襲を実行していました。本市の石版集成図は昭和20年3月2日に撮影され、同年7月には出来上がっていました。いつでも空襲が行える状況であり、戦争が終わるのがもう少し先だったら、本市も横浜や平塚のようにB‐29(米国軍の大型爆撃機)による大規模空襲が行われていたかもしれません。
実際、7月に入ると、毎日のように艦載機(かんさいき)による空襲を受けるようになります。8月13日の早朝には、新玉国民学校や井細田の湯浅蓄電池小田原工場などで本市最大の空襲被害に遭い、30人を超える死者が出ました。その日の空襲の痕跡は、新玉国民学校に隣接する寺院・蓮上院(れんじょういん)に今も爆弾投下跡として残っています。その2日後の8月15日、玉音(ぎょくおん)放送によって国民に終戦が伝えられましたが、本市はその日の未明にB‐29による空襲を受けていました。いわゆる「小田原空襲」です。深夜1時から2時ごろにかけ、埼玉県熊谷市か群馬県伊勢崎市を空襲したB‐29の1機目が照明弾を投下してまちを照らし、2機目が焼夷(しょうい)弾による空襲を実行しました。現在の浜町1、3丁目と本町2、3丁目にまたがる地区が被災し、約400軒の家屋などが焼失、12人が亡くなりました。
米国軍は日本への空襲に当たり、候補地として180都市のリストを作成。本市は96番目に挙げられていました。そのリストに基づいて空襲を実行し、実行後に空襲のあらましを記載した作戦任務報告書を作成しました。しかし、その日の報告書には熊谷と伊勢崎への空襲は記されているものの、本市は記されていません。つまり「小田原空襲」は計画された空襲ではなく、帰路に焼夷弾を落としていった、熊谷・伊勢崎空襲の巻き添えだったと考えられます。
◆小田原市戦後80年事業 認定事業を紹介
戦後80年を機に、多くの市民が平和について考える取り組みを「小田原市戦後80年事業」として認定し、官民連携で推進します。
◇「あの夏の絵」プレイベント〜広島の高校生が被爆者の体験を基に描いた「原爆の絵」展〜
7月19日(土)〜8月1日(金)
開催場所:UMECO(うめこ)ホワイエ
◇「あの夏の絵」小田原上演
8月2日(土)
開催場所:三の丸ホール大ホール
◇We Love Odawara みんなの音楽祭〜小田原から愛と平和を奏でよう〜
8月9日(土)
開催場所:三の丸ホール大ホール
◇戦後80年平和な未来へ「私の願い」コンサート
8月31日(日)
開催場所:三の丸ホール 大ホール
※「小田原市戦後80年事業」認定事業は、12月26日(金)まで募集しています。
【WEB ID】P10733
問い合わせ:総務課
【電話】33-1291